最近、ちょっと怒ることがつづいたので、自己分析をしてみる。
怒りは自己防衛の反応であることが多いのではないか。
自分の中にある不安や恐れゆえに、自分を守ろうとして「怒り」という感情が表出してくるのではないか。
怒りの感情の現れはそれぞれである。ある人は他者を責める言葉という表れ方をし、またある人は、黙りこんだり、閉じこもったり、コミュニケーションを断ち切るという仕方で表れる。前者は女性、後者は男性にその傾向があるように思う。
怒りの感情とは、体にたとえるなら、頭が痛いというような、病気の症状のようなものににている。頭痛に対して鎮痛剤はあくまで対処療法でしかない。頭が痛くなるその根本原因を解決しなければ、一時的に良くなってもそのうちまた頭が痛くなる。
怒りの感情も、ただ怒ってはならないとそれを否定したり、我慢して平静を装うだけでは、原因は残ったままなので、そのうちまた表出してくる。
怒りの原因であるところの恐れ、不安はなんなのか。何を恐れているのか。何に不安を感じているのかに光をあてて、そこに変化をもたらす必要があるのではないか。
一つの可能性として、自分自身の存在価値に対する不安、それを否定されるのではないかという恐れが、自分を守ろうとする怒りとして表出していることが考えられないか。
こどもの態度や言葉に親がカチンとくるとしたら、その態度や言葉によって、親としての自分の存在に不安や恐れを感じさせられているからという可能性が高い。「親に向かってその言葉は、態度は何だ」という怒りの裏には、その子どもの言葉と態度が、親としての自分自身の価値に不安と恐れを感じさせたゆえの反応と思われる。
夫婦の関係、学校や仕事など、あらゆる人間関係などにおいて、人の言葉や態度で怒りを感じた時のことを良く考えてみれば、その態度や言葉によって、自分の存在価値が否定されたと感じたからではないか。これは46年生きてきた人生経験を踏まえての実感である。
神を信じる信仰者の立場からいえば、自分の存在価値への不安ゆえの怒りとは、神にこの上なく愛され存在している自分というかけがえのない存在価値を、人の言葉や態度に委ねてしまっている状態といえる。それが怒りという症状として表出している可能性がある。
イエスキリストは、当時の人々の陰謀によって十字架につけられた。そして人々からこの上ない罵倒の言葉を浴びた。ところが、イエスさまは一切怒りを表出することなく、十字架の上で罵倒する人々への赦しの祈りさえなさる。
それはイエスさまが、人の言葉や態度によっては失われることのない、「神に愛されている子」という確たるアイデンテティを持っておられたからではないだろうか。
神を信じる者にとって、そこに、怒りという感情をコントロールできる可能性と、鍵があると思うのである。