今日の週報から

shuichifujii2013-05-05

日本人には、聖書の言う「罪」と言う概念が分かりづらいと、よく言われます。

 皆さんが罪と聴くと思い浮かべるのは犯罪ですよね。つまり、人になにか悪いことをした。迷惑をかけた。そういうことがまず「罪」と言う言葉と結びつくんじゃないですか。

 でもそうなると、人に迷惑さえかけなければ、罪じゃないんじゃないかという発想にもなる。

 赤信号、みんなで渡ればこわくない。規則をやぶっても、それが人に迷惑をかけない限り、別に「罪」じゃない、という感覚もあるでしょう。

 でも、実は日本人にも、もともと、たとえ人が見ていなくても、人に迷惑をかけるとか、かけないとか、そういうことを超えて、お天道様が見ているよとこどもたちに教えていたはずですし、お天道様に恥ずかしくない生き方をするようにと教えてきたはずなんです。

 聖書が「罪」といっているのは、まさに、そのお天道様である「天の父」との関係で言われていること。この宇宙を目的をもって創造し、愛し育んでくださっている、天の神さまの、その御心を損なうこと。それが「罪」といわれていること。

 わたしたちは、あまりにも目の前にみえるものとか、状況とか、実はそれは一時的なことなのにそれがすべてのように思えてしまうわけです。そのような世俗的な価値観にどっぷりとつかっていると、目に見えないものこそが永遠の価値がある、ということが分からなくなる。目に見えない神さまの御心、愛すること、信じること、希望すること、その素晴らしい永遠の価値がわからないまま、どうしても、目の前の目に見えることごとで、右往左往してしまう。言いかえれば、いつも満たされない今を生きてしまう。

 「罪」とはある意味、満たされない今を生きる生き方そのものなんです。「天の父」に愛されていることがわからないまま、その結果として自分自身や他者との関係がうまくいかなくなるとか、神さまにしか満たされないものを無理に満たそうとして、犯罪という実が結ばれてしまったりする。

 この世にありながら、目に見えない「天の父」と繋がる満たされた今を生きる。これがキリストが実現してくれる、罪からの解放。神の救いなんです。