「愛の流れに身を置く」

クリスマス。
それは天の父の深い愛の出来事の証

 天の父に愛され、天の父を愛し、まさに天の父と一つであるイエス
そのイエスが、この罪と悲しみに満ちた世に愛を流すために与えられた。
エスが、愛に欠けた人間の罪を、愛を壊す憎しみを、恨みを、みんな引き受け十字架にいのちを捨て、決して終わることのない愛の源として、復活させられ、今もイエスを信じるもののなかに、尽きることのない愛を流してくださっている。
決定的なる神の愛のプレゼント。神の愛の流れの証
それが、神の独り子イエスの誕生。クリスマス
 この神さまの大きなプレゼント。愛の流れを受けたわたしたちは、この愛を流していくものになっていきます。
 この時期、このちいさなのぞみ教会のことを覚えて、遠くから、ちかくから、教会にクリスマスの献金や献品を捧げてくださる方がいます。心から感謝しています。

 神さまの愛の流れのなかに身を置いて、流れてきた愛を、次に流さずにはいられない人として生きる。
 献金も献品も、神さまが必要としているのではありません。神さまは、わたしたちからなにかもらわなければ生きられないわけがない。神さまは、私たちからなにも必要としておられません。
 ではなぜ教会に献金をするのでしょう。それは、愛が流れるためです。教会に捧げられた献金によって、礼拝をささげるための教会の借家が借りられたり、牧師が福音を語り、こども会や、さまざまな機会を得て、神さまの愛の流れが流れていくために、使われるからです。福祉施設への献金も、愛の流れと言う意味において同様です。
 すべては、天の父から流れてきた、愛の流れの生み出した帰結なのです。
 そもそも、わたしたちはなぜ、最初から天に生まれないで、この悲しみ多い世に生まれるのでしょう。考えてみたことがありますか?
 やがて、神さまによって、涙がすっかりとぬぐわれる天に帰る、その日まで、この悲しみ多い地上の短い人生のなかで、神さまから流れくる愛の流れ、福音の流れを、この世に流すためではないですか。
 神さまの愛の流れが流れていく、その流れの中に身を置いて、愛を受け、愛を流し、互いに分かち合いながら、やがて神さまに招かれる天に向かって、愛の宝が満ちていくプロセスを、今生きている。

 「愛」。それはよきものの「流れ」なんです。
 流れるとき、はじめて「愛」は、「愛」となるのです。
 川の流れがそうであるように、川は流れ続けることで、川であれるのです。
 流れが止まると、川は淀み、川は死ぬ。
 誰かから自分に流れてきた愛の流れ。それはまただれかにながれていくとき、生きるのです。
 それは、「誰かのためになにかする」ということ以前に、神にこよなく愛されている自分が自分として生きるためなんです。永遠に。それを永遠の命というんです。
 愛の流れの中に、身を置く。いや神さまによって、その愛の永遠の流れの中に、「すでに」置かれていることに気づく。

 それが、クリスマスの恵みなのです。