「信仰」と「宗教」

 最近思うのは、「信仰」と「宗教」は、言葉としては似たような概念だけれども、中身はだいぶ違うんじゃないか、と言うこと。


 これは私の勝手な定義だけれども、「信仰」とは、ごく簡単に言ってしまえば、自分を愛をもって存在させてくださった方(神とよんでもいいし、天の父、天の親でもいい)を本当の親として信頼していきること。それが「信仰」

 それに対して、「宗教」という言葉を私流に定義するなら、自分を存在させた方とは切り離して、無条件に自分自身の力を信じ、自己実現とか、この世界のユートピアとか、そういう理想状態を自力で実現しようとする営み、と言えるんじゃないかな。


 「宗教」とか「信仰」というと、一般的には、目に見えないものを扱っているという面では、似ている概念なので、ごっちゃにされやすいけれども、実は信頼の対象が全く違うという面で、ある意味正反対。

 実際「宗教」が怖いとよくいわれるのは、それが自分を超えた大いなる存在への「信仰」のようでいて、実はそうではなく、神不在のままに、自分の力によって行う、行事・儀式・教え・知識・掟やルールの厳守などが先行し、形式化し、そして強要されていく、というところにあるんじゃないかな。

 そういう意味で、「宗教」は危険である、という認識は正しいと思う。

 本来純粋に、自分を存在させた方(神さま、天の父)を信頼する、「信仰」であったのに、それが自己中心的な思いや、恐れ・欲・高慢(プライド)などによって、「宗教」化するということが起こるんじゃないだろうか。そしてまさにそういう「宗教」化こそ、自分を存在させた方(神さま、天の父)の絶対的な愛を信頼する「信仰」から引き離し、恐れによって人を縛るのだ。

 「信仰」は人を活かし、「宗教」は人を縛るという意味で実は正反対のもの。

 でも、たいてい「信仰」している本人は、自分は全く「宗教」的になっていないと思っているし、周りの人も、その人が「信仰」から行動しているのか、「宗教」的になって行動しているのは分かりにくいもの。そこに「宗教」の怖さもあるのでしょう。


 そこを見抜くのは難しい面もあるけれども、ポイントとしては、これをしなければ、罰が当たるとか、悪いことが起こるとか、裁かれるとか、そうやって「恐れ」によって行動させられていたり、また反対に、これをすれば祝福されるとか、よいことが起こるとか、そうやって結局は幸せになるのはあなた次第、というような自分の行いに依存させるようなことがあるなら、それは「宗教」化している、と言うことなのだろう。

 天の父を信頼する「信仰」とは、聖書を通してキリストが再三「恐れなくていい」「あなたは神の子だ」「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と言われた「あなたを愛している」という愛の宣言を信頼することだし、その言葉に信頼して、目に見える今の自分がどうであれ、周りの状況がどうであれ、それに捕らわれず、今、すでに天の父に愛されている幸いに感謝していきること。

 「信仰」は自由を与え、「宗教」は人を縛る。

これは大切なポイントなんだよね。