自分からしたい、ということ

 昨日のブログの記事との関連だけれども、クリスチャンでも、いわゆる真面目で、熱心であればあるほど、実は自分で頑張って信仰者らしく生きているということが、起こることがあって、(すべてじゃないけど)クリスチャンらしく振舞わない人に、つらく当たったり、裁いたりしてしまうことがあるんだよね。

 具体的には、礼拝出席とか奉仕とか献金とか。他の人がそれらをどのようにしているかが、気になってしまうということがあるわけです。


 でも、こういうことがらは、そもそも自分の内側からの内発的な欲求からすることなので、本質的には、他人がどのようにしているか、なんて気にならないはずなのです。

 にも関わらず、他人のことが気になるなら、実は自分がそれらのことをしたくないのに、周りの人の目とか、自分の中に残っている親から受けた厳しい目とか、そのような圧力によって、頑張ってやっているから。自分が頑張ってやっているのに、頑張ろうとしない人を許せない。そういうことす。

 これが、イエスさまの当時の律法学者たちの状態だったわけです。彼らは、実は心からそういう宗教儀礼をしたかったというよりも、他者の目を気にして、頑張っていたわけだから。もし、彼らが自分がしたくて、それらのことをしていたのなら、他の人のことを、「罪びとだ」なんて、裁かなかったでしょう。他の人のことが気になるということは、つまり、自分が「いやいや」やっていたということです。裁きってつまり、妬みなんだよなぁ。

 だから、人を裁かないようになるためには、とにかく、自分が本当にそれがしたくて、礼拝し、奉仕し、献金したらいいんです。自分がいやいやしているから、人のことが許せなくなるわけなんだから。

 単純に、天の父の愛を思いましょう。神の愛の言葉にストレートにふれましょう。

 でも、一人では挫けてしまうでしょう。一人ではまた、「頑張ってしまう」でしょう。だから、だれかが語ってくれる神の愛の言葉を一緒に聞き、自分の口では祈れなくても、一緒に賛美し、祈ってくれる友と、共に集う礼拝にいくのです。それが、どうしてもわたしには必要だから。礼拝しなければならないのではなく、一緒に礼拝したい。一緒に神さまの愛を語りあい祈りあいたい。そして、この神さまの愛を分かち合える喜びを自由に表現し、人々に分かち合うために、喜んで奉仕し献金したい。

そんな内発的な欲求を、いつも、聖霊が与えてくださいますように。