教会のイメージ

shuichifujii2012-09-13

 最近、朝の散歩の時、いろいろと考える。

 朝の登校のとき、子どもたちを見守っている農家のおじさんに出会って挨拶をするのだけれど、農業をしている人は、きっと神さまを大切に思っている人が多いんだろうなと、思う。どの部落にもその中心に神社があり、お祭りをたいせつにし、共同体を守ろうとしていることからも、そう感じる。

 そのように、神さまを信じることが大切だと思っている人は、日本の社会の中には沢山おられるように思う。

 中には、聖書を持っていたり、心の中でイエスさまを信じている人も、意外といるかもしれない。

 ただ、そのことと、日曜日に教会にいって礼拝することが、結びつかないのだろうな。

 農家の人々は、きっと家族全員や共同体として、収穫を願い、神さまに頭をさげ、感謝を捧げることがあるでしょう。

 いのちを与え、生かしてくださっている神さまに感謝を捧げる。それは本来、個人の心情の問題というよりも、共同体としての作法だったんじゃないかな。

 だから、自分の心の中で神さまを信じていればそれでいいという振る舞いは、かえって日本においては不自然なんじゃないかな。

 今すでに神さまを大切に思っている人々がいて、実は、皆さんが感謝を捧げている神さまは、この世界をつくられた神さまで、イエスさまはその方を、天の父と呼びなさいと教えておられるのですよというアプローチもあるんじゃないかな。

 そうやって、家族や共同体みんなで当たり前のように集まり、天の父なる神さまに感謝を捧げる。それが教会と呼ばれていく。そんなことも。

 それにしても、聖書のいう神さまを信じている集まりのことを、「教会」と訳してしまったのは、なんだか学校のイメージと重なって、ちょっと違うんだよなぁ。

 「教会」、そして牧師が「先生」と呼ばれることと、教会に集う人に、教育者が多いことは、全く無関係ではない気もしているし。