仕事教

shuichifujii2012-09-12

 教会の庭に育った大きなきゅうり。おいしかった。
苗を植えただけで、あとはほとんど何もしていないのだけど、勝手に育っておいしい実りをいただける。感謝なことです。

朝、子どもたちと一緒に学校まで歩き、帰り道ぶらぶらと散歩しながら、考えた


「生きるためには、働かなければならない」という考えをしがちだけれど、そうではなく、正しくは「生かされているから、働くことができる」ということじゃないか、ということ。

 今年の庄内の夏は、雨がほとんど降らなくて、作物の不作を心配する人もいる。

 いくら働いても、天候ひとつで豊作にも不作にもなることを思えば、「働くことで生きている」というより、「天によって生かされているから、働ける」ということじゃないか。

 なぜこんなことを言うかと言うと、「仕事がうまくいかないと、生きられない教」という教えによって、今、沢山の人が苦しんでいる時代のように見えるから。

「仕事」がわたしたちを、存在させ、生かしている神と信じられしまっている。

 いや、そうじゃなくて、天の親である神さまが、わたしたちを存在させ、何もできなかった赤ちゃんの時から、今まで生かし続けているんじゃないか。

 そして成長したわたしたちが、誰かのために生き、この世界に良いものをもたらすようにと、「仕事」というものがそこにあるんじゃないか。

 その意味で、家の家事も含めて、誰かのために生きることは、みんな価値ある尊い「仕事」でしょう。

「仕事」って、それによって必ず誰かの必要を満たしたり、喜ばせようとしている愛の行為のはず。人を苦しめたり、奪い取ることは、仕事として成り立たないでしょう。裏社会ならともかく。

その行為によって、誰かが助かったり、喜んでくれたからこそ、そのお礼としてお金をいただき、自分も喜ぶ。

 そもそも、昔は物々交換で、お互いの喜びと愛を交換し合ったわけだ。

それをいつでもどこでもやり取りできるようにしたのが「おかね」というツール。道具。

「お金」はツールですよ。道具。そして「仕事」は手段。

じゃあ「目的」はなにか。それはほかのだれかと、愛と喜びを分かち合うことに他ならない。

だから、「仕事」のために、身近な人との愛の関係を壊してしまうのは本末転倒ということ。「仕事教」の信者はやめにしたい。

たとえ不景気で仕事がないときがあっても、身近な人と愛と喜びを分かち合う関係さえあれば、人は生きのびていけるのだから。

私たちを存在させている天の親の愛を、互いに分かち合う。

そういう意味でいえば、このブログだって「仕事」なんですよ。そういうモティベーションがあるからこそ、毎日せっせと書くこともできる。報酬は、天に積まれているので、楽しみです(笑)

 どんなことでもいい。今、置かれているところで、愛を分かち合う「仕事」に、精一杯励めれば。それが出来るようにしてくださっている神さまに、感謝をささげつつ。