教会の庭に育った大きなきゅうり。おいしかった。
苗を植えただけで、あとはほとんど何もしていないのだけど、勝手に育っておいしい実りをいただける。感謝なことです。
朝、子どもたちと一緒に学校まで歩き、帰り道ぶらぶらと散歩しながら、考えた
「生きるためには、働かなければならない」という考えをしがちだけれど、そうではなく、正しくは「生かされているから、働くことができる」ということじゃないか、ということ。
今年の庄内の夏は、雨がほとんど降らなくて、作物の不作を心配する人もいる。
いくら働いても、天候ひとつで豊作にも不作にもなることを思えば、「働くことで生きている」というより、「天によって生かされているから、働ける」ということじゃないか。
なぜこんなことを言うかと言うと、「仕事がうまくいかないと、生きられない教」という教えによって、今、沢山の人が苦しんでいる時代のように見えるから。
「仕事」がわたしたちを、存在させ、生かしている神と信じられしまっている。
いや、そうじゃなくて、天の親である神さまが、わたしたちを存在させ、何もできなかった赤ちゃんの時から、今まで生かし続けているんじゃないか。
そして成長したわたしたちが、誰かのために生き、この世界に良いものをもたらすようにと、「仕事」というものがそこにあるんじゃないか。
その意味で、家の家事も含めて、誰かのために生きることは、みんな価値ある尊い「仕事」でしょう。
「仕事」って、それによって必ず誰かの必要を満たしたり、喜ばせようとしている愛の行為のはず。人を苦しめたり、奪い取ることは、仕事として成り立たないでしょう。裏社会ならともかく。
その行為によって、誰かが助かったり、喜んでくれたからこそ、そのお礼としてお金をいただき、自分も喜ぶ。
そもそも、昔は物々交換で、お互いの喜びと愛を交換し合ったわけだ。
それをいつでもどこでもやり取りできるようにしたのが「おかね」というツール。道具。
「お金」はツールですよ。道具。そして「仕事」は手段。
じゃあ「目的」はなにか。それはほかのだれかと、愛と喜びを分かち合うことに他ならない。
だから、「仕事」のために、身近な人との愛の関係を壊してしまうのは本末転倒ということ。「仕事教」の信者はやめにしたい。
たとえ不景気で仕事がないときがあっても、身近な人と愛と喜びを分かち合う関係さえあれば、人は生きのびていけるのだから。
私たちを存在させている天の親の愛を、互いに分かち合う。
そういう意味でいえば、このブログだって「仕事」なんですよ。そういうモティベーションがあるからこそ、毎日せっせと書くこともできる。報酬は、天に積まれているので、楽しみです(笑)
どんなことでもいい。今、置かれているところで、愛を分かち合う「仕事」に、精一杯励めれば。それが出来るようにしてくださっている神さまに、感謝をささげつつ。