三つの嘘

 あるトラクトからヒントを得た、今の時代の三つの嘘のお話


1つ目の嘘
「自分の人生は自分の思い通りに生きるのが一番幸せ」
 自分の思い通りに生きるのが、人間らしい生き方。善悪の基準は「私」にある。人は人。自分は自分。だれからもとやかく言われたくない。

 自己犠牲、自己否定などつまらない。ましてや神を信じ、イエスキリストの言葉に従って生きる生き方など、時代遅れ。ナンセンス。自分の思い通りに生きるべきだ。

 こういう自分中心の生き方が本当に満ち足りた人生を提供するでしょうか。それが本当なら、あの「タイガーマスク」の無私の捧げものが、あれほど話題になったのはなぜでしょう。

 イエスさまは「自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしについてきなさい」と言われました。この自分を捨てるとは、自分を失うことではなくて、人生の中心を、愛の神におくことです。自分の思い通りではなく、愛の神の思い通りに導かれ、神を愛し、自分を愛し、人を愛する幸いな人生を生きることです。


2つ目の嘘
「いくら謝ってもゆるされない罪がある」
人間には良心があります。間違ったことをしたと感じた時、良心に痛みを感じます。この罪悪感が心と体を病ませ、人を束縛します。

 キリスト教の中心は十字架です。十字架が、罪悪感の問題からわたしたちを救う神の答えです。罪なき神の子イエスが、その命を十字架の上で犠牲になさったので、悔い改めてイエスさまを信じるなら、罪は神の前に赦されます。

 神がゆるされるというのに、「いくらあやまってもゆるされない」という人は、いったい、なにものでしょう? そんなの甘い? いい加減だから?

 しかし赦されるためには、キリストの犠牲が必要ということは、あくまで神は正しく罪を裁かれた、ということ。信仰によって義とされたということ。いい加減なゆるしではないわけです。

 キリストの犠牲によって赦され、義とされたと信じたら、必然的に正しく生きていくことを願う。「何をやってもどうせゆるしてもらえるさ。人は罪を犯し、神はゆるすのさ」とはならない。なぜなら、神に義としていただいたのだから。神の子としていただいたのだから、それにふさわしく生きるように聖霊が導く。

 罪責感はその力を奪う。それから解放され、救われた喜びに活き活きと生きていきたいもの。


3つ目の嘘
「とりあえず今日が楽しければいい」   
 確かにだれも先のことはわかりません。だからといって、今日のことだけを考えてせつな的に生きていていいのでしょうか。確かに死はいつやってくるかわかりません。しかし、確実に言えることは、わたしたちはいつか必ず死ぬということです。

 老後の備えよりも、もっと切実な備えは、死の先の備えです。聖書はイエスキリストを信じるものは、永遠の命を得ると約束しています。

備えあれば憂いなしです


「神はその独り子をおあたえになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが、一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」ヨハネによる福音書3章16節