昨日は仙台教会に招いていただいて礼拝でのメッセージのご奉仕をしてきました。
酒田の礼拝には、仙台教会のYさんが来てくださり、ご奉仕してくださいました。感謝いたします。
懲りもせず、また礼拝の中で、「今振り返ってみれば」を賛美させていただきました。
今年はこの賛美歌を神さまにいただいて、沢山の慰めと励ましをいただきました。感謝です。
説教は、マリアが天使ガブリエルから「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と言われた箇所からでした。
わたし自身、「主が共におられる」ことにまさる「おめでとう」はないのだなぁ、と一年を振り返ってみて、あらためて思います。
10月に義理の父が天に召される直前も、耳元で詩編23編を朗読したことを思い起こします。
23編4節
「死の陰の谷を歩む時も、わたしは災いを恐れない
あなたがわたしと共にいてくださる」
人生の最後に、語りかけられる言葉、希望をいただいていることは本当に感謝なことです。
「イエスさまがいっしょにいてくださるから、大丈夫ですよ」
そう義父の耳元で語りかけ、祈りました。
わたしも最後の時が来たら、「イエスさまがいつもいっしょにいるから大丈夫だよ」って、家族から語りかけてほしいなぁ、と思います。
さて仙台では、楽しい出会いもあったし、意外な一面を知って、感動させられた方もおられたし、いろいろ書きたいことが沢山あるのですけれども、個人的なことは、ちょっとこれ以上は書けないなぁ。
でも仙台教会は今、次の牧師さんが来られるまで、牧師がおられないのですね。ですが、日曜日の礼拝の時間の前には、教会員のみなさんが集われて、様々な奉仕をしておられましたし、粛々と教会学校で、聖書の学びと分かち合いをしておられる姿に、深く感動し励まされました。
酒田の小さな教会も、たとえ牧師であるわたしがいなくても、いつものメンバーで聖書を開いて、祈り、賛美をし、礼拝を捧げることはできるのですね。牧師が説教をしなければ、礼拝にならない、ということではないわけです。
もちろんだからといって、牧師が不要であるわけではないのですよ。
牧師の働きによって、イエスさまの体の一部である教会の一人ひとりが整えられ、活かされ、そうやって教会がさらに豊かにされていく。そのために、牧師は聖書のみ言葉に集中して、そういう形で仕えていくわけです。牧師がいることは、恵みです。
ではありますけれども、当然のことですが、牧師は「神さま」ではないのですから、牧師がいなくても、礼拝は捧げられるわけです。「主がはそこにおられる」のですから。
なので、「牧師がいないとだめだぁ」でもないし、反対に「牧師がいなくても大丈夫じゃん」でもない。
そのどちらかに偏るのは簡単なのです。でも、そうではなく、その間の微妙なバランスをとるのが難しい。
それはまさに聖霊の与えてくださるバランスなのかもしれません。
さて酒田のわたしたちも、最近、牧師が他の教会に招かれて不在になり、牧師不在の礼拝を経験することが増えてきましたけれども、それは、このバランス感覚を今から感じ取るための、レッスンなのかもしれないなぁ、などと思う今日この頃。
とにもかくにも、主さえそこにいてさえくださるなら、すべてよし。