世の光、地の塩

 今日の礼拝はTさんはお休み、Iさんがお久しぶりに参加。
聖書から、神さまの言葉にふれるひと時は、本当に恵まれます。心のうちから力がみなぎってきますね。


 お昼を食べて、午後は美香と一緒にチラシ配り。美香はチラシ配りが好きなんですね。その間、嗣音は小さな勇希と一緒に遊んでくれています。それぞれ神さまから与えられている賜物を生かしてくれます。


 今日の御言葉は、あなた方は地の塩、世の光である、と言われたイエスさまの言葉から。


さて、普通は、この自分が「世の光」だなんていわれても、ちょっとおこがましい、と思うものでしょうねえ。


 しかし、聖書によると、人間は偶然に存在しているのではなくて、神によって目的を持って造られた、神の最高傑作だというのです。
でも、自分を造られた神を見失っているので、神に造られた自分自身の存在の価値をも見失っているわけです。それで、まるで糸が切れた凧のように、風に吹かれてさまよい、自分の価値を求めて、人の言葉に右往左往し、時代の価値観という風にもてあそばれる。

なにかできないと、自分には価値がないと、一生懸命勉強したり、資格を取ったり、そういう自己実現に走る。


自己実現の根本的な問題点は、今の自分はだめだ、と否定するところから始めること。今はだめだが、頑張って、良くなりたいと考える。基本的にセルフイメージが低い。だから、どこまでやっても、自分はまだだめだ、とセルフイメージは低いまま。


しかし、イエスさまはここで、「あなた方は頑張ったなら、地の塩、世の光になるであろう」と言われたのはなく、また「そのうち、地の塩、世の光になるだろう」と言われたのでもないのです。今、すでに「地の塩、世の光なのだ」と言われたのです。


 つまり、神によって目的をもって造られ、神に似るものという、神の最高傑作として造られているあなた自身。「すでに今」「地の塩」であり「世の光」なのだ、ということを認識するようにということです。


その認識に至るためには、どうしても、神を認めないとなりません。


 神など知らない、認めないということは、つまり、自分は偶然に存在しているだけの、価値も意味もない存在だといっていることになるからです。


 しかし、聖書の教える、創造主なる神を信じるということは、同時に、その神に目的を持って造られ、神の最高傑作として生かされている、自分自身の存在の意味と価値をも見出すことになるのです。


 自分には神などいらないと、神との関係を遮断することが「罪」です。その「罪」はキリストの十字架と復活によって解決されています。キリストを通して、わたしたちは、創造主である神を、天の父と呼ぶことのできる神との親しい関係に入れていただける、というのが、福音、聖書の伝えるグッドニュース。


 この福音というプレゼントをいただいて、神に立ち返るなら、神に造られた自分自身の素晴らしさ、今すでに「世の光、地の塩」としていただいている価値を見出すことができます。


そして、同時に、隣のあの人も、この人も「地の塩、世の光」であることを発見する。


 あの人は、好きとか嫌いとか、何かができるとかできないとか、そういうことで、「だめだ」と評価してみたり、見下してみたりすることはない。どんな人であっても、神によって、「世の光」とされているのだから、互いに尊敬しあい、赦し合い、神さまが下さった目的と使命に向かって、与えられている命の時間を、十分に活用して、いきいき、ワクワクと、生きていけばいいのです。

ともに「世の光」として、この世界を照らしていこうよ、と、いっしょに前向きに生きていきましょう。