「信仰における、言葉と感性」

shuichifujii2013-12-28


 日本人は古来から自然と共に生き、人がなくなるとからだは山に葬り、魂は山に宿ると信じ、大きな山や、岩や巨木などに神が宿ると信じてきたのですね。

 それはきっと、頭の中の理屈ではなく、感性や感覚。

それは先日の山伏の星野さんのおはなしを聞いて、改めておもいました。

自然の中で修行をするのも、自分自身がなにか会得するというよりも、感性や感覚を磨いて、神を感じようとしていく営みなのだろうと思います。

であるから修行中は、一切言葉を語らない。自分の頭の枠組みで理解し解釈し、なにか自分勝手な答えを出すことを放棄し、自然から、ただ受けとる。気付く。


 さてわたしは、プロテスタントの牧師をしていて、ここ数年思うのです。

特にプロテスタントは、「聖書の言葉」にこだわるゆえに(これはもちろん非常に大切なことです)、その知識的な習得、知的理解を深めることが、つまり「聖書を学ぶ」という学習行為が、信仰生活の中心になりがちで、信仰が頭の中の知的な理解にとどまりやすい傾向があると、これは、自戒を込めて思うのです。

 イエスさまの言葉が、頭の中の知識ではなく、自分の中で生きて働く命となり、現実となる。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」マタイによる福音書6章26節


 たとえば、このイエスさまの言葉を、頭の中の知識として「知ること」と、本当に空の鳥を見にいったり、自然にふれて、その中で神の配慮と愛を「感じとる」ことの違いなんです。

 そして「知識」は合理性や検証性があるけど、「感覚、感性」は非合理で、検証不可能な主観が入るから、言葉にこだわるプロテスタントは、後者を排除する傾向がある気がする。

 でも、そんな「知的合理性」という枠組みだけでは、人間が生きていく現実に届かないんじゃないか。

 聖書の言葉にこだわるとは、本来、聖書の言葉が示している神を求め、神に出会い、神を感じ、神と一つになって生きること。

 改めて、山伏の星野さんのお話を聞いて、気がつかされました。


 ただ一方で、自然信仰には、言葉がない。その決定的な物足りなさをも思います。

自然は神ではありません。自然は永遠ではないからです。
自然を造られた万物の根源が、あなたを、わたしに命を与えた、その存在の根源こそ、神です。
その神は、わたしたちにわかるように、言葉で今も語りかけている。
エスキリストという言葉によって、今。

新約聖書 使徒言行録 17章22節〜 から

パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。
世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。』