愛は自発的なものなんだよね

産経ニュースより

●【新年度】橋下知事が任命式の君が代斉唱に「声が小さい!」

 大阪府の新規採用職員任命式が1日、大阪市中央区の府庁新別館で開かれた。今年度から式典の開会にあわせて国歌斉唱を導入。橋下徹知事は「声が小さい」と一喝。「みなさんは国家のもとで仕事をするのだから、思想信条の自由とかいっている場合ではない。国歌はきちんと歌うのが義務」と早速、新職員に橋下流の洗礼を浴びせた。


■橋下家の子供も歌えず

 任命式では例年、国歌斉唱は行われていなかったが、橋下知事からの指示を受けて実施することに。今年は新たに137人が入庁。国歌を歌っている職員も、そうでない職員もいたが、みな緊張した面持ちで式典に臨んでいた。

 訓示のなかで、橋下知事は「うちの子供が国歌を歌えなくてびっくりした。みなさんは公務員になって憲法を順守すると誓った。国家のもとで仕事をするのだから、国家国民を意識しないといけない。これからはことあるごとに国歌斉唱をしていきます」と訴えた。

 ちなみにわたしも、自分が住んでいる郷土、国を愛して、その国の歌を大切にしたいと人一倍思っています。


 だからこそ、愛国心は強制ではなく、自発的でなければと、思うのですよ。


 いうまでもありませんが、強制された愛など、あり得ないでしょう。


「わたしを愛しなさい」「わたしを愛するべきだ」「わたしをたたえる歌を大きな声で歌え」なんていってくる、気味のわるいストーカーみたいな人を、また国を、愛せますか。

 愛とか、仕える心というものは、自発的に生まれるものなのですよ。「声が小さい」なんて上からいわれて、面従腹背で、歌を大きな声で歌ってみたところで、国家に対する愛がうまれるわけがないでしょうに・・・。


 そもそも、「国を愛せ」と言う言い方は、権力者に利用されやすいし、実際、利用されてきた歴史もあるわけです。「国」や「郷土」を愛せと言いながら、その実、自分たちの権益や立場のために、国民を扇動してきた権力者たちがいたわけですよ。そこのところは見抜かないとね。


 知事の「思想信条の自由とかいっている場合ではない」という発言もびっくり。「思想信条の自由」をうたっている日本国憲法を否定して、同時に、国家に仕えるべきだというのですからねぇ。その「国家」っていったい何?


 「公務員は国家のもとで仕事をする」という言い方も、誤解を招きやすい。日本は国民主権の国なのだから、「国家の元」といういい方ではなくて、「国民の元」で仕事をすると言った方がいいかな。


 まちがっても、「国民」よりも上に、なにか「国家」という権力組織があって、ご自分がその権力者の椅子にでも座っていると、誤解をしておられなければいいのですが。

いずれにしろ、言葉の使い方は気を付けないといけませんな。


 公務員とは、あくまで、国民によって立てられ、国民の税金によって支えられ、国民にサービスする働き人。
 国民からゆるされて、委託されて、その立場にいる、というのが建前。
 公務員は「国家」つまり、「国民」に仕える公僕。「君が代」という歌がたたえている「なにものか」に仕えるのではなく、目の前の「国民」につかえるのが公務員なわけです。


 ですから、「君が代」が歌えなくても、目の前の一人の日本国民を愛し、仕えている公務員がいるなら、その人は、立派な愛国者です。


 大阪府知事なら、先頭切って、大阪に住んでいる人々を愛し、仕えなっきゃねぇ。
行政機関のトップである知事は一番の公僕。
「声が小さい!!」と、上から物を言うのは、いかがなものかと・・。
 それでは結局、面従腹背になるでしょうに。


 本当に「君が代」という歌を好きにさせたいなら、目の前の職員一人ひとりを大切にして、愛を伝えることから始めて言っていただきたいものですな。



「上に立ちたいと思う者は、全ての人のしもべになりなさい」とキリストが言われたように