ニーバーの祈り

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。


変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。


そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。


ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm



これはとても意味深い「祈り」ですね。


たとえば、往々にして、人は、「自分」が変わることを恐れ、自分には変えられないはずの「他人」を、無理にでも変えようとするものです。


「あの人が、こうなったらいいな」「この人が、こうしてくれたらいいな」と「他者」の変化を願いますが、「自分」が変わらなければならないことには、なかなか気付けなかったりします。


 しかし現実には「他人」を変えることなどできません。そのことを「受け入れるだけの冷静さ」こそ必要です。そのことを受け入れられずに、様々な手段で「他者」を変えようとするところに、人間関係の苦しみが発生します。


 一方、「変えるだけの勇気」さえあれば「自分」は変わることができます。

「ごめんなさい」がいえる「勇気」

「ありがとう」がいえる「勇気」

「これがなければだめ」と握り締めていたものを、手放す「勇気」

「今までの生き方、考え方」を変えていく「勇気」


 この「変わることを恐れない勇気」とは「頑張って自分を変えること」とか「自己暗示」のたぐいではありません。自力で頑張って、その「頑張っている自分」を変えることは無理です。それは自分で自分を持ち上げようとするに等しいことです。


 ですから、この「勇気」は、自分以外のところからいただくしかありません。わたしにとってそれは「信仰」であり「祈り」なのです。


 「信仰」とは「他者」を変えることではなく、「自分」が変わっていく「勇気」を得ることです。


 そして、「自分」が変わっていくとき、自分と関係する「他者」も変わっていくのです。人間は関係の生き物だからです。その互いに変えられていく場、成長していく関係が、教会であり、また本当の意味での家庭なのです。



ゆえに、「変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ。」



と祈りたいのです。

アーメン