教派のこととか

 昨日は、市内にある韓国系の教会の7周年記念礼拝に招かれて出席。東京にいたときは、自分の教会のことで手一杯で、あまり他教派とのかかわりはもちませんでしたが、酒田に来て、立場的にも身軽になり、他教派の教会に、気軽に顔を出せるようになりました。


 教派が違うと、やはりいろいろ違う面もあります。韓国系の教会にいって、まず面食らうのは、祈り方。そこはみんながそれぞれ、同時に、声をだして祈ります。実は、わたしは、これが苦手。どうしても人の声が気になって、十分に祈れない。またせっかく一緒にそこにいるのに、どうも心を一つにして祈っている気がしないからなんですが、でも、こういう祈り方がいいという人もいるのなら、それはそれでいいんです。


 神様はそれぞれに違った賜物を与えておられるので、自分にあった祈り方でいいわけです。教会は、イエスさまを救い主と信じる点で一致してさえいれば、やり方とか、細かいことは、違っていてもいい、というより、違っているからこそ、それぞれの教会が存在する意味もあるんでしょう。


 教派の違いは、国籍の違いと似ています。国籍が違っても、人間は人間であるように、教派が違っても、クリスチャンはクリスチャンということです。日本人は韓国人のようにはなれないし、韓国人も日本人にはなれないし、ならなくていい。違いがあるからこそ、豊かさもあるのであって、世界中がみんな日本人だったらこんなにつまらないことはないように、世界中が同じ教派になったら、こんなにつまらないことはない。違う教派が沢山存在することは、分裂ではなくて、豊かさの表れなんです。



 他の国にいくと、あらためて、自分は日本人なんだ、ということを自覚させられるように、他の教派の教会に触れることで、ああ、自分の居場所はやっぱりバプテスト教会なんだなぁと、いつも自覚させられるのです。