聖書とLGBTQについて対立ではなく対話を

 

キリスト教の中には多くの異なる教派や理解が存在し、LGBTQ+の方々に対する見解も大いに異なります。
 あるクリスチャンは、聖書が同性愛行為を罪とみなしていると解釈しますが、他のクリスチャンは、その伝統的な解釈に、疑問をもっています。
たとえば
 「文化的文脈の理解」
  聖書が成立した時代と文化の文脈により、それらの禁止されている行為が現代のいわゆるLGBTQ+とは、全く異なるものであった可能性が指摘されています。
 一部の学者は、聖書の記述は主に男性間の性的な乱行や、力と支配の象徴としての性行為、異教の儀式に関連した性行為を扱っていると主張します。
「翻訳と解釈の問題」
聖書の翻訳や解釈に問題があると指摘する人もいます。たとえば、新約聖書に出てくるギリシャ語の言葉 "マラコイ" と "アセルノコイタイ" を「同性愛者」と訳す聖書がありますが、この言葉については多くの議論があり、「同性愛者」を指すという翻訳が必ずしも正確ではないとする見解もあります。(そもそも「同性愛」という言葉は、19世紀後半に出現したものであり、その前の時代は、そのような特定のカテゴリーとして分類する概念はありませんでした。)
「福音理解の問題」
 神はすべての人を目的と愛をもって創造したと信じる人々は、愛、寛容、赦し、共に生きるという考えに重きを置き、そもそも性的指向によって人を差別する読み方は、「福音」に反していると考えます。
 これらの解釈は全て、聖書学者や神学者の間で広範囲にわたる議論と討論の対象となっています。そして、それぞれの教派、教会、または個々の信者が独自の解釈を持っているのが現状です。
対立ではなく、対話をしていくことが大切です。