市内の牧師会

 今日は、わたしたちの教会で、市内の牧師会。わたしを含め、5人の先生方が集われました。


 牧師会というと、どこでも大抵、なにかテーマを決めて、誰かが発表し、意見交換や、互いの教会の情報交換がおもな内容かと思います。


 酒田の牧師会もそのような内容で今まできましたが、この牧師会は、なにかテーマを決めて、議論したり決め事をするビジネスミーティングよりも、ただ集まり、共に時を過ごすことを喜びとする会にしましょうと、確認。


 牧師はとかく、セミナーなどの勉強会とか、イベントなどの準備など、そういう集まりにはなれています。ある人は、それをこのように皮肉りました。


セミナーやカンファレンスを初めとする多くの集まりは牧師たちがストロー持参で集まり、何かを吸い取ろうとしているだけである。吸い取るものがなければ、そこに行く必要を感じないのである。・・・」


 何かを得たり、なにかをするためだけに集う関係。逆をいえば、何かを得られなければ、なにかしていなければ、一緒にいられない関係。そこには、お互いに対する信頼関係は、育たない気がします。なにもしなくても、顔を会わせて語り合うことが楽しい。お互いの中にある主の下さったすばらしさを分かち合える関係。教派を越えて、牧師同士がそういう関係になることができたら、教会同士の関係も変わる気がします。



詩編133編にはこんな御言葉があります。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」


 ただ、そこに共にいることができる関係。それはなんという恵み、喜びかと言われています。


 さらにお互いの失敗とか、抱えている弱さとか問題なども、自由に語り合えるような、牧師会になったらいいなぁー。そんな幻をもっています。