「援助」から「救い」へ

 午前中は天気が良かったので、残っている「のぞみ」を配る。

 午後から雨。傾聴ボランティアのために、隣町の特別養護老人施設に。


 私は毎回、傾聴する前に、あることを祈ってから傾聴するのです。


 人はだれしも、自分の話を聴いてほしい。ゆえに、親身になってその人の話に耳を傾けることが、その人の助けになる、という理念で、傾聴ボランティアはなされます。


 そして、そのとおり、助けになっていますし、喜ばれています。隣人を愛しなさい、というイエス様の教えにもかなった、意味ある働きだと思います。


 しかし一方、牧師の立場からは、この傾聴ボランティアの限界を認識しています。つまり、傾聴とは、あくまで「援助」であり「救い」ではないということです。


 傾聴においては、その人の言葉を聴くことで、その人自身の中から、よきものが引き出されてくることを期待します。そういう意味において、傾聴は「援助」です。


 人間の内面の善や力に全面的に期待するという人間観は、心理学やカウンセリングと同じです。基本的には、その人自身が、自分で立ち上がっていくことを「援助」するということです。


 しかし、自分自身というものが、そんなにあてになるのでしょうか?そこが大きな問題です。
 

 さて、聖書は、人間というものは、神からはなれて堕落してしまった罪人であるとかたります。人間には、罪があるので、自分自身の善とか力に全面的に期待することはできません。それゆえ、「援助」ではなく「救い」が必要になります。ここが、傾聴や心理学、カウンセリングなどと決定的に違うところです。


 心理学やカウンセリングにおいては、自分自身の善や、力に失望してしまったら、「援助」はできず、おしまいです。しかし、聖書においては、自分自身の善や力に失望してしまうところから、キリストによる「救い」が始まるのです。


 キリストに罪赦され、キリストに祈って助けられ、キリストと共に、死をこえた永遠の命を生きる。「救い」


 ですから、牧師である私は、傾聴を始める前に、「この方が神の救いを求めますように」と祈ります。自分の善や力に失望し、救いを求める方に、福音という神の「救い」を分かちあえることこそ、クリスチャンの喜びだからです。


使徒言行録16章28節〜
パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」

看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。


二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」


そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。