毎日、少しずづ、28日の集会のチラシを配り始めています。
配りながら、いろいろなことを考えるものです。
今日は、キリスト教が伝えているのは、「ありがたい教え」じゃないんだよな、ということを考えていました。
「ありがたい教え」じゃ救われないんです。
「教え」だと、結局それを自分が行うことで、救われなさい、ということになるからです。
結局、自分で自分を救う話となります。
それは、自分で自分を持ち上げるのと同じで、無理なこと。
「教え」では救われないんです。
人によっては、そもそも、「救い」なんて必要ないと感じているかもしれません。
でも私に言わせれば、あなたが必要ないと感じるような「救い」なら、本当に必要ないということです。
それはきっと、なにか「教え」や「戒律」による「救い」のイメージだったり
目先のご利益のごときを「救い」とイメージしているんじゃないでしょうか。
そんな狭くてつまらない「救い」なら、確かにいらないのです。
わたしたちに命を与えた普遍的存在が、救うのでなければ救いではないのから。
すべての人が、「それが救いなら、私にも必要だ」という「救い」でなければ、「救い」ではないのだから。
そんな普遍的な「救い」。
その「救い」をもたらす存在を、キリストと呼ぶのです。