救い

shuichifujii2014-09-12

毎日、少しずづ、28日の集会のチラシを配り始めています。

配りながら、いろいろなことを考えるものです。

今日は、キリスト教が伝えているのは、「ありがたい教え」じゃないんだよな、ということを考えていました。

「ありがたい教え」じゃ救われないんです。

「教え」だと、結局それを自分が行うことで、救われなさい、ということになるからです。

結局、自分で自分を救う話となります。

それは、自分で自分を持ち上げるのと同じで、無理なこと。

「教え」では救われないんです。

人によっては、そもそも、「救い」なんて必要ないと感じているかもしれません。

でも私に言わせれば、あなたが必要ないと感じるような「救い」なら、本当に必要ないということです。

それはきっと、なにか「教え」や「戒律」による「救い」のイメージだったり

目先のご利益のごときを「救い」とイメージしているんじゃないでしょうか。

そんな狭くてつまらない「救い」なら、確かにいらないのです。

わたしたちに命を与えた普遍的存在が、救うのでなければ救いではないのから。

すべての人が、「それが救いなら、私にも必要だ」という「救い」でなければ、「救い」ではないのだから。

そんな普遍的な「救い」。

その「救い」をもたらす存在を、キリストと呼ぶのです。