処女降誕

shuichifujii2006-12-17

 今日の礼拝は、マタイによる福音書1章18節から。
 妻マリアのお腹の子は、聖霊によって宿ったというみ使いのメッセージを、夫ヨセフが信じ、マリアを受け入れる決断をするところ。


 分かち合いの時間のとき、求道者のMさんの奥さんが「聖霊によって生まれたというのは、本当ですか?」と質問された。ごもっともな質問だと思う。こう答えた。「わたしは見た訳じゃないですから、本当かどうかはわかりません。でも、これは、本当かどうかというよりも、信じるか信じないか、ということだと思いますよ」。Mさんのご主人も「これは理屈じゃないんだよね。ヨセフはそう信じたんだから」と奥さんにいわれます。ああ、Mさんのご主人は、「信仰」とはなにかが、分かっていらっしゃるな、と感じました。


 処女降誕は本当だと分かったから、信じるということではありません。だれもこのことが「本当」だとか「そんなことはない」と、断言できる人はいないし、そうしないのが限界ある人間としてのわきまえ、エチケットです。これは、「本当かどうか」と聖書に向って問うのではなく、「あなたはこれを信じるのか信じないのか」と、私たちの方が聖書から問われていること。他の人はどうでもいいのです。あなたはこれを信じるのか、信じないのかということです。


 ヨセフは信じました。そしてマリアとお腹の子を迎え入れる決断をします。
 信じて決断する人の心の中に、イエスキリストは今日も生まれてくださるのです。