「主の言葉は実現する」(2017年花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2017-12-17


ルカによる福音書1章26節〜45節

救い主の誕生を待ち望む、アドベントのろうそくの3本目が灯りました。

アドベントのロウソクは4本ありますよね。だからアドベントは4週間なのですけど、

来週はもう24日ですから、アドベントとクリスマスのロウソクをつけて、クリスマスの礼拝を捧げます。

本当は、25日の月曜日にクリスマスの礼拝ができるなら、24日はアドベントの4週目の礼拝となるわけですね。

でも月曜日に集まるのは難しいではないですか。なのでプロテスタント教会は、来週の日曜日にクリスマス礼拝をするわけです。

しかし、一番最初のクリスマスは、来週、メシアが生まれることにして、お祝いしましょうと、そういうことはできなかったでしょう。


そういう人間の側の都合で、予定したり、計画することとは無関係に、

ある日突然、神様の時が満ちるようにして、神の出来事が起こった。

先ほど読まれた聖書の中で、天使ガブリエルがマリアのところに遣わされて、

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」といい、

あなたは身ごもって男の子を産むことになるよ。その子をイエスと名付けなさい。

この子は、永遠にヤコブの家、神の民を治める王となるのだ」という宣言を、

ユダヤのナザレという田舎に生きていた一人の少女「マリア」が聞くことになった。

いわゆる「受胎告知」という出来事は、まさにある日突然、引き起こされたわけです。

しかし、今「ある日突然」と言いましたけれども、実をいうと、その6ヶ月前に、マリアの親戚のエリザベツ、その夫のザカリアのところにも、天使が現われていたのでした。


高齢だったエリザベト。しかし彼女は「ヨハネ」という子を宿すことになる。

このヨハネはエリザベトのおなかの中にいる時から、聖霊に満たされていて、

ヨハネは、やがてメシアがやってくるための準備をするのだと、告げられていました。

この天使の宣言、そして出来事も、人の予定や計画とは無関係に、

天の側から、引き起こされた出来事でした。


青天の霹靂(せいてんのへきれき)という言葉がありますね。

晴れ渡った空に、突然雷鳴がとどろく、ということからきた言葉ですけれども、

まさにエリザベツとザカリアの夫婦にとっても、そして、今日のマリアに起こった出来事においても、

この天使の言葉、宣言、告知は、晴れ渡った空に、突然光るカミナリ、とどろく雷鳴だったことでしょう。

ですから当然、この天使の言葉に、マリアが、戸惑い、恐れ、「どうして、そのようなことがありえましょうか」といったのは、

人間として当然の反応です。「どうして、そのようなことがありえましょう」

「そんなこと、あるわけがないじゃないですか」

あえていわせていただくなら、ここで「マリア」は、天使の言葉を否定したのです。

その理由として、「わたしは男の人を知りませんのに」と付け加えて、マリアは天使の言葉を否定した。

この、まずマリアは天使の言葉を信じなかったということは、あまり注目されませんね。

それよりもむしろ、マリアのこの「受胎告知」の出来事で注目され、大切にされるマリアの言葉は、

38節の言葉です。


「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」

この全てを受け入れ、委ねようとする、マリアの言葉が、心に残りますし、教会はこの信仰をとても大切にしてきましたけれども、

ただ、ルカの福音書は、この言葉をマリアが語る前に、

マリアは「そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、天使の言葉を否定していることも、実は大切なこと、忘れてはならないことだと、思うのです。


なぜなら、この「受胎告知」の出来事は、キリスト教の長い歴史の中で、なんども疑われ、馬鹿にされ、「こんなことがあるわけがない」と否定され続けてきたでしょう。

聖霊によってマリアが神の子を宿すなどという出来事を、本気で信じているんですかと、教会はいつも問われてきたでしょう。

でも、いいたいのは、世界で一番最初にこの「受胎告知」を疑い、天使の言葉を否定し、信じようとしなかった人は、ほかでもない「マリア」だったのだ、ということなのです。

科学が進んだ時代に生きている現代人のわたしたちだから、「受胎告知」が信じられないのではないのです。古代人だから、マリアは信じられたわけでもないのです。

昔も今も、この「受胎告知」という出来事は、人間の知性や経験では理解できない、信じがたい出来事です。


キリストの奇跡や、復活と同じです。

このわたしの「経験」や「知識」の枠組みの中にははいらない。

まさに「どうしてそんなことがありえましょうか」という出来事。

そしてそういう人間の側のすべての都合を越えた出来事、

まさに青天の霹靂の出来事であるからこそ、

神からの出来事として、まさに神が引き起こしておられる、救いの出来事であるのだと、

福音書はまっすぐに、妥協せずに、書いている。わたしはそう信じる牧師です。


「どうしてそんなことがありえましょうか」「ありえない」という、人間枠組みをこえた、神の救いの出来事。

聖霊によってマリアは神の子イエスキリストを宿した。

この信じがたい、神の救いの出来事。この福音を、


世界で一番最初に、信じたのも、「マリア」なのです。

戸惑い、恐れ、疑っていたマリアに、

「神にはできないことは何一つない」と、天使は力強く宣言します。

マリアは、そういわれても、なお「そんなことありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、言い続けることもできたでしょう。


つまり、自分が納得できる世界、自分の計画や自分の願いのなかに、生き続けようとすることも、できたでしょう。


マリアはヨセフのいいなずけだったのです。すでに結婚相手が決まっていたのです。それなのに、その結婚相手の子ではない子を宿すという、まったくもって、自分の計画や願いとはちがう、このような出来事を、

マリアは受け入れなくてもよかった。

「どうしてそんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と、言い続けることもできたでしょう。


今まで数えきれない人々が、「受胎告知など、どうしてそんなことがありえるかと」、はねつけてきたように、

自分の経験、知識の中だけで、

人間の都合や計画のなかだけで、生きていこうとすることも、できたでしょう。


しかし、マリアはその選択をしませんでした。

彼女は、自分の計画、自分の納得という世界を越えて、神の出来事に、身をゆだねる決断をして、こういいます。


「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と.



ヨセフとの結婚を控えていたマリアにとって、この一言は、決して簡単な言葉、軽々しく口から発せられた言葉ではないのです。

「なぜ、よりによって私なんですか」
「どうしてこの結婚を控えた大切な時なんですか」という葛藤が当然あったはずです。

そのような、マリアが置かれた状況、葛藤をイメージすればするほど、

マリアが「お言葉通り、この身に成りますように」と語った、この一言の重みを、わたしたちは深く味わい知ることができるのです。


先週、「郡山コスモスとおり教会」の礼拝に参加してきたわけですけれども、

礼拝の前に、教会学校の時間があって、少しだけ参加したのです。


そして、そのとき読まれていた聖書の箇所が、まさに今日のこの「受胎告知」だったのでした。

10人ほどがテーブルを囲んでいる、その端っこに、数日前に癌の手術をしたばかりの、K先生と、インターネットで繋いだ、パソコン ipadが置かれていて、画面越しに、宮崎からK先生も参加していたわけですね。

先週の礼拝に参加された方は、OさんからK先生の病状、そしてご主人もまた大変状況となって入院されたことが、伝えられたと思います。

K先生はパソコンの画面越しに、こんなことを言われました。

「天使から、恵まれた女よおめでとうと言われて、マリアは、どうしてわたしがって、思っているんですよね。それを、喜べる・・喜べるのかなって。うーん。ガブリエルが来たり、聖霊が降りとか、神様おっしゃってくださるんだけど、すべてやっぱり、『どうしてそのようなことがあるでしょう』って、なりますよね。聖書で読んだらすごいなーと思えるんだけど、自分の身に起こったら、神様、どうしてわたしにって、なりますよね・・・」

 K先生は、このマリアに引き起こされた青天の霹靂の出来事と、

今、ご自分の身や、家族に次々と引き起こされている、つらい出来事、幾多の苦しみの出来事を、重ねて、語っておられたのです。

わたしだったら「お言葉通り、この身に成りますように」と言えるだろうかと。
この状況を喜べるのだろうかと、

マリアの心を、自分の心として感じようとなさっていたのでした。

わたしたちは、自分が計画していたこと、願っていたこととは、全く違う出来事と遭遇させられたとき、

そこに、自分の願い通りではないからこそ、神の出来事なのだと、受け止め、信じ、ゆだねていこうと、生きることは、

口で言うほど、そんなに簡単なことではないのではないでしょうか。

「お言葉通り、この身に成りますように」と言う言葉は、そんなに簡単な言葉ではなく、

とても重く、しかし、それゆえに尊い言葉なのではないでしょうか。

信じ切れない自分がいる。どうしてわたしが、という苦しみを感じている自分がいる。

その葛藤のなかで、「それでも」、「それでも」、「神に委ねるしかない。委ねよう。ゆだねます」と

絞り出すようにして、「お言葉通り、この身になりますように」という言葉が口からでた。

そんなマリアの姿を、わたしたちの人生と重ねながら、想像するのです。


信じることの困難。恐れを感じながらも、なお、神の言葉を信じることを選び、その道を歩み始めたマリア。


しかし、物語はここではおわりません。


マリアは一人、孤独に、その歩んでいくのではなかったのです。

マリアはこのあとすぐに、エリザベトのところに、飛んでいきました。

なぜなら天使が「あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ヶ月になっている」と言ったからです。

マリアは、神の出来事を体験しているのは、自分だけではない。

エリザベトもそうだったのだ。5か月姿を見せなかった、エリザベトは、実は、神の出来事を経験していたのだ。

それを知ったマリアは、すぐにエリザベトのところにいきました。

エリザベトの家まで、どれくらい距離があったのかはわかりません。遠かったかもしれません。

でも、マリアは急いでいかないわけにはいられなかった。

今、自分が聞いた言葉を、体験した、神の出来事を、

同じように体験しているはずの、エリザベトのところにいき、話をしたい。話を聞きたい。

そういう思いで、マリアはすぐにエリザベトのところに飛んでいったのではないでしょうか。

「急いで山里に向かい」という言葉から、そんなマリアの心を感じ取ります。

マリアにとって、エリザベトがいてくれたことが、どれほど支えになったことかと、思います。

結局マリアは3か月もエリザベトのところに滞在することになるのです。それほどマリアはエリザベトを必要としていたのです。

わたしだけが、神の出来事を体験しているのではないのだ。

エリザベトもそうなのだ。

ああ、エリザベトに会いたい。そして、同じ神の働きを、聖霊の導きを受けていることを、

知りたい、分かち合いたい。


さて、わたしたちは、なぜ、毎週、毎週、こうして教会に集まるのでしょうか。

そこには、同じ神を信じる人々との出会いと交わりを、わたしたちも必要としているからではないでしょうか。


わたしたちも、それぞれに生きている生活の現場で、

神を信じ、神に委ねて生きようと願っています。

そんなわたしは、決して一人ではない。おなじ聖霊に導かれている仲間がいるのだと、その恵みを確かめ合うために、

互いの言葉を通して、互いの証しをとおして、わたしたちは、励まし合うことを、必要としているから、

教会にくるのではないでしょうか。

わたしたちは、決して一人ではない。自分だけが頑張って、信仰生活を続けているのではない。

神の導きを受け、聖霊に導かれている仲間とともに、歩んでいるのだと。

わたしたちもマリアのように、急いで自分にとってのエリザベトに会うために、毎週教会に集ってくるのではないでしょうか。


エリザベトのところに、マリアがたどりついて、挨拶したとき、エリザベトのおなかの赤ちゃんが踊ったと書いてあります。

神の働き、聖霊をそのなかに宿している、お互いが、反応しあって響き合っているような出来事です。

マリアの訪問を受けたエリザベトは

聖霊に満たされて、神の言葉を、マリアに告げました。

42節

「あなたは女の中で祝福された方です。体内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」

エリザベツは、今でいえば、「後期高齢者」くらいの年齢でしょうか。

そしてマリアはおそらくまだ、10代の少女です。

人生の長さ、経験が全く違う、二人が、ここで心を一つにできるのは、聖霊によってこそ。

エリザベトは、ただ彼女の人生経験を語ったのではなく、聖霊によって言葉を語っています。

その聖霊によって語られる、神の言葉だけが、この時のマリアの心に届く唯一のことばだから。

「なぜわたしなのですか」「どうして今なのですか」という、葛藤と苦しみを越えて、

なお、神を信じ、神のみ言葉の通りに、この身に成りますようにと、委ねる決心をして、その信仰の一歩を踏み出し、新しい世界へと歩み出したからこそ、

彼女はエリザベツのところに、走っていって、そしてエリザベツの口を通して、神の言葉を聞くのです。

「大丈夫だ、あなたの自分の人生も、そして、おなかの子どもも、神に祝福されている」という言葉を、

聖霊に導かれたエリザベツが語る、神の言葉を聞くのです。

マリアは、この神の言葉に、どれだけ慰められ、励まされたことでしょうか。

ゆえに、この後すぐ、マリアの口から、賛美の歌が、マリアの賛歌があふれ出るのです。


さて、先週、わたしとNさんが参加した郡山教会の礼拝で、

K牧師は、礼拝堂の正面の、講壇の下に設置された、パソコンの画面から、メッセージを語ってくださいました。

羊飼いに天使が現れて、メシアの誕生を告げた箇所でした。

羊飼いは、この良い知らせの最初の証人になったというメッセージでした。

礼拝が終わった後に、わたしはそのパソコンの画面の前にいって、K先生と画面越しに、お話しました。


「先生、今日のメッセージで語ってくださったように、ここで出会った神様の恵みを、羊飼いのように、花小金井教会の皆さんに伝えますからね」と言いました。先生は喜んでくださいました。


そして、いくつか会話しましたが、K先生は、こんなことをいわれたのです。

「こうして、教会の皆さんと繋がって、聖書の話をしている時間だけは、痛みをわすれるんです。
メッセージをすることが、一番の薬なんです」という言葉です。

礼拝の前の、教会学校の時間に、「どうして、こんなできごと喜べるでしょうか。」と言われていた、K先生のその同じ口から、

今、神の言葉を、教会の仲間と一緒に聞くことが、なによりも、痛みを取り去る薬なのだと、その言葉は、私の心に深く刺さったのです。



わたしたちが、人生の歩みの中で、「なぜ」「どうして」と、心や体を痛めるとき。

しかし、わたしたちは一人孤独ではありません。

教会という、神の言葉を分かち合う仲間とともに、

人の思いを遙かに超えた、神の御心が、神の言葉を聞くことができるのです。


自分のこの今の状況の中に、人生に、必ず実現するという、神の言葉の約束を、

わたしたちは、ともに信じ、神を見上げて生きる、幸いなる仲間です。


「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」