「残された者」

3月8日祈祷会のお話

◆ユダの王ゼデキヤ
列王記下
24:18 ゼデキヤは二十一歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をハムタルといい、リブナ出身のイルメヤの娘であった。
24:19 彼はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。
24:20 エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった。ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻した。



 祈祷会では去年から、イスラエルの歴史を学び続けてまいりました。ダビデ、ソロモン、そして、北と南に別れたイスラエル王国のそれぞれの王様をたどっていきました。先に北イスラエルが滅亡し、そのあと、南ユダも、今日の箇所におきまして、とうとうバビロニア帝国によって、捕囚となり滅ぼされていく。それが、今日の箇所になります。

 その南ユダ最後の王様は、ゼデキヤという名の王でありました。最後の王様といえば、昔、ラストエンペラーという映画がありましたけれども、これは、中国最後の皇帝、溥儀(ふぎ)が、時代の大きな流れの中で、やがて日本軍によって、満州国の傀儡政権の皇帝として即位させられ利用されていくという、そういう歴史が近代にもあったわけでありますけれども、この、南ユダの最後の王、ゼデキアもまた、同じように、バビロン帝国によって立てられた、傀儡の王様でありました。


列王記下24章17節
「バビロンの王は、ヨヤキンに代えて、その叔父、マタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせた」

とあります。前の王様、ヨヤキンは、バビロンに降伏し、捕えられていく。そうしてバビロンに降伏した南ユダを治める傀儡政権の王様となったのが、ゼデキヤでありました。

 ただ、降伏したといっても、そのまま放っておけば、また力をつけて、謀反を起こすかもしれないということで、バビロンは、南ユダの多くの優秀な人々を、バビロンへと連れて行ってしまいます。これが、捕囚ということでありますけれども、政府の高官や兵士、職人など、総勢一万人以上、そして、王様のヨヤキンも連れられてしまい、残ったのは貧しい人々だけ、という状態のところに、傀儡の王様、ゼデキヤは立てられたのでありました。

 ゼデキヤは21歳で王となり、11年間王位にあったとあります。ところが、このゼデキヤは、なお主の目に悪とされることをことごとく行ったと、記されているのであります。

 つまり、このような悲惨な状況のなかにおかれながら、なお、この王様は、イスラエルの神、主に立ち返るということを考えなかったということであります。預言者がさんざん、主に立ち返るように、さもなくば、バビロンに捕囚になると語ってきましたのに、それがまさに現実になろうとしているにも関わらず、悔い改めて、主に立ち返るということもなく、なお、主の目に悪とされることを、ことごとく行ったという、これは、もう、救いようがないとしかいいようがないのであります。

 ゆえに、20節において、こう記されていきます。
エルサレムとユダは、主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった」

 と語られて行きます。とうとう南ユダは、主に捨てられてしまう。

 主に捨てられるとどうなるかというと、その後すぐに、「ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻した」と続く。

 つまり、主の御前から捨て去られたからこそ、ゼデキヤは、バビロンに反旗を翻すという愚行を行うのであります。どう考えてもあり得ない。優秀な人間を、兵士をほとんどバビロンに連れられて、国はすでにぼろぼろであるにもかかわらず、このゼデキヤ王は、何を思ったか、身のほどもわきまえず、バビロンに反旗を翻すのであります。

 まるで、神風が吹くと信じて、すでに国の中はぼろぼろなのに、大国アメリカと闘いつづけたかつての日本を思い起こしますけれども、また、イエスさまの時代のイスラエルもまた、やがて、大国ローマに勝ち目のない戦争を挑んで、滅ぼされてしまうわけですけれども、不信仰ゆえに、主の御前から捨てられるということは、それは、自分が弱くなるということではなく、逆に、強くなってしまう。傲慢になってしまう。そして、身の程もわきまずに、滅亡へと突き進んでしまう。そういうことが、主に見捨てられるということのなかで、起こるのではないかと思います。

 もちろん、そこに至るまで、再三、主は預言者を遣わし、御言葉をもって警告しつづけた。主に立ち返るようにと、主は語り続けたのでありました。なんどもなんども主は御言葉をもって語りかけ、なんども引き返すチャンスがありましたのに、結局、主の御声ではなく、自分の声に聞き従って突き進んだ、その罪の報酬がまさに、バビロン捕囚であるわけでありました。

エルサレム陥落の箇所を読みます。
25:1 ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。
25:2 都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った。
25:3 その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、
25:4 都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。
25:5 カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。
25:6 王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。
25:7 彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。

 バビロンに包囲され、兵糧攻めによる飢饉に、たまらずに逃げ出したゼデキヤ王はとらえられ、家臣はちりぢりになって逃げ去り、ゼデキヤの子らはゼデキヤの目の前で虐殺、ゼデキヤも両目をえぐられて足かせをはめられて、彼は死ぬまで牢につながれることになります。

 そして、この後の所を読みますと、エルサレムと神殿がことごとく破壊され、さらに民がバビロンへと連れて行かれ、残ったのは、本当に貧しい人々だけになったと記されています。こうして、主に見捨てられた南ユダ王国は、ゼデキヤを最後に滅亡いたしました。

 さて、振り返ってみれば、ここまで学んでまいりました、この列王記は、ソロモン王が王国の確立して、大々的に神殿を建築するという、華々しく、希望に満ちた幕開けをしたわけでありました。その希望に満ちたスタートを綴ったはずの列王記が、今、こうして、その王国の崩壊と神殿の破壊という、悲劇によって幕を閉じようとしているわけであります。アメリカハリウッドの映画でありましたら、たとえ苦難があっても、最後はハッピーエンドで終わる希望がありますが、列王記は、希望で始まり、悲劇で幕を閉じる。

 これは、いったいどうしてなのか。なぜ、イスラエルは、こんな歴史を歩まなければならなかったのかということを、この列王記を記した人々は、それは、「神の民の私たちが、神を捨てたから」であると、そのような観点から、一貫して記しているのであります。イスラエルの歴史が、捕囚、滅亡という悲劇に終わるのは、「神の民のわたしたちが、神を捨てたからであった」。そういう強烈なメッセージを、この列王記を記した人々は、後の時代の私たちに、書き残したわけであります。

 神の民が、神を捨て、そして神に捨てられていく歴史。それがわたしたち、イスラエルの歴史であった。そのことを、列王記の記者は、隠すのではなく、大いなる悔い改めのなかで、この書を書き記していった。それは、もう二度とこのような過ちを犯さない。神の民が、神を捨てるという過ち、神の語りかけに耳をふさぐという過ちを、犯さないのだという思いを込めて、本当ならば隠しておきたい、自分の祖先の惨めな歴史を、あからさまに書き残したと、そういうことでありましょう。

 しかし、イスラエルの歴史は、ここで全て終わってしまったわけではなかったわけであります。捕囚になって、王国が滅び、神の民がバラバラになって、それで、終わったのではありませんでした。

 25章の27節。列王記の最後の最後に、このように記されています。

25:27 ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。
25:28 バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。
25:29 ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。
25:30 彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された。

 どういうわけか、とらわれていたバビロンにとらわれていたヨヤキン王。彼は、最後から二番目の王で、第一回目の捕囚の時にバビロンに連れ去られていたのですが、彼が、37年経って、ここで情けをうけて、出獄し、バビロンの王に優遇されたと、そう記されて、この列王記は終わるのであります。

 つまり、ダビデの子孫。ダビデの根は根絶しなかった。生き延びたのでありました。

 イスラエルを見捨て、裁かれる、その神様の、救いの御手が、実にここに現わされている。エルサレムは滅亡しました。しかし、やがて、新しいイスラエルが、この捕囚の民の中から起こされていく、その希望が、神様によって「残された者」によって、やがてイエスキリストによって作られる、新しいイスラエル。新しい神の民。教会が生み出されていく。
 その神の救いの希望が、ここに記され、列王記は閉じられていきます。

そして、わたしたちの教会とは、まさに、この神による救い、キリストという希望の上にこそ、立っているのだということを、あらためて深く、深く、心に刻みたいのであります。