覚え書き

ボンフェファー「説教と牧会」より

・「牧会とは、説教のつとめをさらに徹底させて個々人にまで御言葉を届かせることである」

・「わたしが、一人の悲しんでいる人を喜ぶ人にし、ひとりの心配事にうちひしがれている人を晴れやかで大胆な人にするとしても、それで私は誰をも決定的に助けるわけではない。そのようなことはこの世的なことであり、従って決して真の助けではないであろう。そのようなあらゆる状態を超え、またそのような状態の中にあって、神が我々の助けであり慰めであることが信じられなければならない。」

・「さまざまの問題の出てくる根本は、神の御言葉からの逃避であるということが、はっきりと見据えられていなければならない。そこから目をそらして自分の罪を正当化する限り、われわれはつらく厳しい律法によって追い立てられなければならない。」


・「神への耐えざる祈りを抜きにしては、牧会的な対話は存在しない」

・「ほかの人間の言葉に耳を傾けることのできない人は、もはや神の御言葉に聞くこともできない。そしてもはや祈らなくなる。したがって我々の他者に対する愛は、まず第一にわれわれが他者の語ることに耳を傾けるところにある。」

・「牧会は究極的には精神療法とは何も関係がない。・・・精神分析においては、最初の段階がすぎると、担当の医師への依存を意味する「医師コンプレックス」が現れる。・・・・これに反して牧会者は、どの段階においても自分の力により頼まず、ただひたすらにキリストの言葉と霊とに依り頼むのである。」

・「他者が牧会者との直接的な結びつきを求めるところでは、牧会者は冷酷なようでもきっぱりとそのような要求を拒否しなければならない。しかし、そうすることがむしろその人を愛することになるのである。心理的な直接性というむしむしする雰囲気は、牧会においては現れてきてはならないものである。牧会者は他者を深く愛するゆえに、その人に恨まれる羽目に陥ることもあるのである。御言葉と祈りと信仰とによりたのむことによって、他者は自分自身の自我から解放される」

・「牧会者が心理学者から学びうることは非常に少ない。それは基本的にただ観察すること、評価すること、分析することだけである。これらのことはまさに、牧会者の奉仕にとっては決定的なことではない。なぜなら、牧会のわざは、人間を神への愛と救いとにもたらすことにあるからである。

・「牧会は二人の人間の間におこる。・・・信仰告白の行為は、容易に人に示すための見せ物となる。・・・あらゆるキリスト教的な露出症に対しては、最初から強く警戒すべきである。牧会は非常に慎ましやかで純粋なものである。