教会のイメージ①

"ONE PEOPLE"/JohnR.W.Stott より

 新約聖書が教会を最も絵画的に描くイメージのうち三つは、旧約聖書から取られている。神の民は、花嫁、ぶどう園、羊の群れとして描かれる。それらはすべて神がその民との間に樹立された直接的な関係を印象づけており、民は神と共に、その関係を味わい楽しむのである。

①神はイスラエルをその若いときから見そめ、花嫁として身元に引きよせ、結婚の契約を結ばれた。それ以後、神はイスラエルの不忠実さ、姦淫の行為、さらには乱行を避難し続けてこられた。

②神は一本のブドウの木をエジプトから引き抜き、それをカナンという「肥沃な地」に植えられた。その地で、ぶどうの木は根を張り、全地にふえ広がった。神は、その保護のために見張り小屋を建て、収穫のために醸造おけをおいた。そして義という実りを期待したのだが、実りを結んだのは、不義、抑圧という野ぶどうだけであった。そこでぶどう園を放棄された。

③また、神はイスラエルの羊飼いであった。ヨセフを羊の群れのように導かれた。神はエジプトから彼らを購い、「昔からずっと、彼らを背負い、抱いてこられた」が、バビロン捕囚の果てに、神は同じようにその羊を腕の中に抱き、赤子のように彼らを優しく導かれた。


 これらの描写は、イスラエルを一つの民として神が直接的に、意図を持って取り扱われたことと、民に対する神の主権性、救いのみ業の主導性を強調している。イスラエルを花嫁として選び、ぶどう園を設け、その群れを導いたのは、神である。そして、イエスがこれらのイメージを大胆に自分自身に当てはめられたとき、そこに意図された人格的なかかわりをさらに強調して印象づけられたのであった。

 神は花婿であり、彼が婚宴の客と共にいるときには、断食は場違いである。パウロはこの比喩を、教会に対するキリストの犠牲的愛をさすものとして、ずっと詳しく説明している。それは、教会に対するキリストの主権性、教会への究極の期待、教会はキリストの御前に「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」となるべきだということである。またヨハネは黙示録の終わりで初めて、「小羊の婚宴の時がきて、花嫁はその準備が出来た」と延べ、また「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下ってくる」のを見るのである。

 イエスは悪い農夫のたとえにおいて、ぶどう園のイメージを取り上げるが、さらにそれを展開して、彼自身がぶどうの木そのものであり、その枝の実は、彼にとどまり、刈り込むものの手によって手入れされると教えた。

 またイエスは自らを、一匹の失われた羊を探し出して救うために荒野に出かけ、そのいのちを羊のために投げ出し、彼らを良い牧場に導き、狼から守る「良い牧者」として示している。