終末論は大切です

 何気なくニュース23を見ました。イラクへの自衛隊派遣について長々と特集を組んでいましたが、番組では自衛隊の派遣の是非など、もう何も問おうとしません。いかに自衛隊が現地に貢献することができるかという話だけです。見なければよかったと思います。

 今日は青年の聖書研究で、マタイ24章の神殿崩壊の預言のところを読みました。

 マタイ24章の神殿崩壊の出来事をAD70年の出来事と解釈するポストミレニアムの立場は、カルバンなどの宗教改革者も解釈した正統的な立場でありましたが、150年ほど前から台頭してきたディスペンセーション神学などのの流れの中で、この出来事の時間設定が未来にずらされてしまいました。24章で弟子たちはキリストに対して、今、目の前にある神殿はいつ崩壊するのですかと問い、キリストはそれに答えているのに、それが何千年も後のことを言っていると、どうして時間設定がずらされてしまうのか、ちょっと考えたらおかしいことに気が付くはずですが、いちどそのような未来的パラダイムにはまると、なかなかそこから抜け出せないものです。

 もし、マタイ24章の出来事が未来のことであり、つまりこの世界はだんだん悪くなり、世の終わりには戦争や飢饉や地震が起こり、この世界は滅びるけれども、最後にイエス様が再臨して私たちを助けてくれるのだ、そこに希望をおいて、がんばっていきましょうと、本気で信じるなら、そのように生きてみたらどうでしょう。
 つまり、この世界を良くしようと願う営み、文化的事業、教育など、将来によきものを引き継ぐ営みは、どうせ滅び行く世界の前に一切意味をなさないわけですから、刹那的に生きていきましょう。どうせ世の終わりには国は国に敵対し民族は民族に敵対するのですから、平和のために祈ることも行動することもナンセンス。イラク戦争バンザイ、自衛隊派遣バンザイ。はやくこの世界が滅びて、イエス様が助けに来てくださるのを待ちましょう。とにかく天国への切符を手に入れることが大切ですから、伝道だけを行って社会文化からは手を引きましょう。終末の恐れから伝道するカルト宗教のように。


 もしそれがいやなら、マタイ24章を聖書が語るように、当時の弟子たちの時代の出来事と信じましょう。マタイ24章の艱難が、AD70年のエルサレム崩壊の出来事と信じますなら、すでに最悪の時は過ぎ去り、今、復活のイエス様は私たちと共におられ、終末の完成のときに向かって、神の国を広げられている。つまり世界はキリストによって良い方向に導かれていく、とそう信じることになります。そうであるなら、神の民を増やし教会を形成する伝道、御言葉の教育、聖書的な価値観に基づいた文化形成、などを意味と価値あることとして取り組む動機付けが与えられます。そして、神の国の進展を破壊しようとする戦争には反対し、御国がきますように、神の平和がますように祈り続ける希望と力もわいてくるでしょう。

 終末論が悲観的であれば生き方も悲観的、刹那的になります。社会は滅びるとどこかで思っているゆえに、今の社会に対する関心を失い、信仰がきわめて個人的なレベル、自分のこころの問題や、せいぜい自分と周りの人間関係をどうしようか、というレベルの話にとどまります。信仰が個人的で、いつも自分のことばかり気にするので、自分の状態に合わせて信仰があがったり下がったり不安定です。
 しかし、終末論が希望にあふれたものであるなら、生き方も積極的になります。神の御国の進展を信じるゆえに、当然社会に対する関心も高くなり、信仰が個人的なレベルから解放されます。神が約束された将来の希望に立つ信仰ゆえに、今の自分の状態や、周りの世界の現状によって左右されない安定した信仰となり、有益な働き人となります。

 たかが終末論かもしれませんが、されど終末論であります。
 すでに世に勝利されたキリストと共に、今の時を生きていきたいのであります。

ヨハネ16:33
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

マタイ28:19-20
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」