「争いの終結」

 

 わたしたちは、一刻も早いロシアとウクライナの和平を祈り続けています。

だれもが「争い」より「平和」であることを望んでいるにもかかわらず、なぜ「戦争」は繰り返されるのでしょう。国家間の「争い」と「罪」について、キリスト者精神科医、ポール・トゥルニエは「罪意識の構造」のなかで、このように述べています。

 

 「二国間に 外交上の事件が持ち上がると その二つの国はそれぞれ恐ろしいほどの熱心さで相手国の過ちを告発する。示威行為は論理的で妥協の余地なく、すきがなく、世論は一致し、新聞報道も一致し、論証が豊富に巧妙になされる。自分の方が決定的な権利を持っているとし、協約をおかされた犠牲者の立場にあるとしている国は、その権利を反駁の余地のない法的きびしさで振り回す。しかし相手方は公平の権利に訴える。・・・・このようにして攻撃が交差し、緊張が生じていく。ひとたび戦争が始まれば、おのおのが正義の名においてそれを行う。情熱の敷居をいったん超えると、よく言われるように「銃はひとりでに発射される」

この恐ろしいまでの激烈な憤慨と相互避難は、お互いに「罪ありとされている」と意識している両者に耐えられない大きな不安を与える。社会闘争や政治闘争の古典的な形態を、「罪」という熟語で次のように言い直すことができよう。

人は自分を無罪とするために、他の者を罪に陥れてしまう、と。

みんなが汚れており、誰一人清くはなっていないのである。」(P.100)

 

トゥルニエは、国と国、そして人と人との間の「争い」がやむことなく、むしろエスカレートしていくのは「人は自分を無罪とするために、他の者を罪に陥れる」からだと言います。逆を言えば、人は自分の罪と向き合いたくないので、「正論」で他者を裁き争いつづけるのだと。

さてパウロは、イスラエルに与えられた「律法」とは、人を「正しい」人間に導く教えではなく、むしろ自らの罪に気付かせ、その罪から救うキリストへと導く「養育係」だったと告げました。「律法」ではなく、キリストの恵みこそが人を「無罪」とし、この恵みに与った人々は裁き合うことやめる。ここにおいて「争い」は終結です。

夕礼拝メッセージ「神とその恵みに言葉に委ねます」(2022年5月8日 花小金井キリスト教会)

夕礼拝220508

使徒言行録20章25節~38節

「神とその恵みに言葉に委ねます」

 

 

 会堂におられる方。ZOOMや、後にビデオで、礼拝を捧げる方。

 こんばんは。今日も一緒に礼拝を捧げられる恵みに感謝しています。

 

さて、わたしたちの教会は、週に3つの「コンテンツ」を配信しているのです。

この「夕礼拝」もその一つですが、朝の「主日礼拝」、そして「教会学校の学び」のビデオが毎週配信されています。

おそらくこのコロナ危機以降、あらゆる教会が「礼拝の配信」を始めたとおもいますが、「聖書の学び」を毎週配信している教会は、まだ少ないようです。

 

この「教会学校」を、わたしたちバプテスト教会は、とても大切にしているのですね。

子どもたちだけではなく、大人までの「教会学校」を毎週行っている教派は、キリスト教の教派の中では、少数派ではないかと思っています。

わたしたちの教会が「教会学校」を大切にしているのは、教会に集う一人一人が、自分で「聖書」を読み解いていく、成熟したクリスチャンとして生きることを大切に考えているからです。

加えて、独りよがりの「聖書」の読み方に陥らないように、一緒に対話しながら「聖書」を学ぶことを、大切にしています。

コロナ危機以降。一緒に集まることが難しくなりましたので、聖書の学びの配信を始めましたが、ご自宅で見る方もいますし、お祈り会の小グループで、一緒に観て、分かち合うことで、理解を深めています。

 

そもそも「聖書」は、旧約聖書新約聖書あわせて66巻という、膨大な文書ですから、週に一度の「主日礼拝」や「夕礼拝」において語られる、30分くらいのお話では、そのほんの一部しか、取り上げることができません。

「木を見て森を見ず」というたとえのように、「聖書」全体が「森」なら、礼拝メッセージは、森の中の一本の「木」です。

 

その「木」がそこにある意味を知るには、「森」全体を見通しておく必要があるわけですね。

その「森」を見る現場が、「教会学校」なのです。

今月から夕礼拝のメッセージの箇所は、「教会学校」で学ぶ箇所と同じ個所にしています。

ですから、礼拝のメッセージで「木」をじっくり見つめると同時に、教会のユーチューブにある「聖書の学び」を通して、その「木」が植えられている「森」の様子も、ぜひ知っていただくことを、お勧めします。

 

 さて前置きが長くなりました。

 

今日、朗読された聖書の箇所は、使徒たちによって「福音」が世界に広がっていく様子が記された「使徒言行録」の後半となります。

使徒言行録」は前半が、エルサレムから始まった教会の様子。そして中盤から現れてきた使徒パウロによる、異邦人伝道の旅。

そして後半は、伝道の旅を終えたパウロが、エルサレムで捕らえられ、ローマへと護送されていく話となります。

 

朗読された箇所は、エフェソの教会の長老たちに、別れのメッセージを語っている箇所でした。

このエフェソの教会はパウロの伝道によって生まれた教会です。

31節でパウロはこう言っています。

 

「・・・わたしが三年間、あなたがた一人一人に昼も夜も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」

 

パウロは、このエフェソという場所で、昼も夜も、神の言葉を、一人一人に、しかも涙を流して、教え続けてきたというのです。

 

何という情熱でしょうか?

そうまでして、「神の言葉は教えられなければならない」ことに、あらためて気が付かされています。

おそらくパウロの長い伝道生活のなかで、クリスチャンが「神の言葉を学ぶ」ことの重要性を、痛感させられてきたからかもしれません。

 

教会に対する迫害の問題。そして何よりも教会内部の問題・・・分派、分裂、差別、不道徳、律法主義、聖霊の賜物、教会に対する理解の不一致など、さまざまな問題を経験してきたパウロ

 

そのような日々引き起こされる、教会のさまざまな問題。

その問題は、その場しのぎの「人の知恵」では解決できず、「聖書」の言葉から「神の知恵」を読み解き、対処しなければならないことを、パウロはだれよりも、経験してきた人なのです。

 

もしパウロが現代に生きていたら、「週に一度、たった30分の聖書のお話で、教会は大丈夫なのか?」と、心配したことでしょう。

パウロが、「涙を流して教え」なければいられないほど、外から、内からやってくる問題を乗り越えるためには、「聖書の教え」を知る必要がありました。

 

それは当時の教会だけの話でしょうか?

 

確かに、当時異邦人からクリスチャンになった人々は、「旧約聖書」の内容を知らなかったことでしょう。

ですから、パウロはまず、丁寧に「旧約聖書」の内容を教える必要があったはずです。

旧約聖書」を学ぶことで、イエスが約束されたメシア(キリスト)であることを知り、信仰の確信が、増し加えられるからです。

 それは、日本人からクリスチャンになったわたしたちも、同じではないかと思います。

 

 最初は「イエス様をただ信じる」ところから、クリスチャン生活が始まりますが、

旧約聖書」「新約聖書」を生涯学び続けることを通して、神さまの救いのご計画、愛の偉大さを知りつづけ、なにが神さまの御心なのか、神さまの前に、どのように生きていったらいいのか、その時々に、心の「目をさます」ような経験をするからです。

 

 

 さて、今日の聖書の箇所に戻ります。

先ほどは25節から読んで頂きました。実は「教会学校」ではもう少し前の箇所から学ぶことになっていたのですが、長い箇所なので、朗読は25節からにしました。

 

この場面は、先ほども言いましたように、使徒パウロとエフェソの教会の長老たちとの分かれの場面です。

「長老」とは、教会の指導者、リーダーのことです。

 

パウロはこの後、エルサレムにある教会へ向かうつもりなのです。

そしてパウロには、エルサレムに行けば最後、もうエフェソには帰ってくることは出来ないという予感がありました。

 

少し前の箇所、22節からパウロはこう告げています。

 

「そして今、わたしは、「霊」に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何もわかりません。ただ投獄と苦難とがわたしに待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証するという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と。

 

 

そして、今日朗読された、「あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしにはわかっています」という、25節からの言葉に続くのです。

パウロは、自分が福音を語り、教え、育ててきた、エフェソの教会との別れの時を自覚しています。

 

別れの時には、だれであれ、重要なことを伝えるものです。

 

最初にパウロは言います。「神のご計画をすべて、ひるむことなくあなた方に伝えた」のだと。

逆をいえば、もうパウロが教えることはない。あとは聞いた教えを、あなたたちも教えていってほしいと言うことでしょう。

 

  • 長老(リーダー)へ託していくパウロ

 

またパウロは言います。

「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と。

長老は、人々を支配するためではなく、「神の教会の世話」をさせるために、聖霊によって立てられていることも、パウロは確認しています。

そのように、「自分自身」と、「教会全体」のことの両方に気を配り、世話をする人々。そういう「成熟」した人々が教会には必要です。

 

人間の成長にたとえるなら、信仰生活の最初は、生まれたばかりの「赤ちゃん」に似ています。クリスチャンになったばかりは、教会の仲間から、一方的な愛を受け取りつつ、育っていきます。

やがて自分で自分のことができる、「子ども」時期、「青年」時期を経て、やがて自分のことだけではなく、ほかの人のことにも配慮し、助ける「大人」へと成熟していくような、成長の段階がクリスチャンにもあります。

 

「大人」へと成熟していくためには、「子ども」「青年」時代に、沢山の学びを必要とするように、クリスチャンの信仰生活にも、「聖書の学び」の時が必要です。

聖書のことを知らないままに、自分の人生経験だけで、教会の「長老」の働きは、できません。

 

パウロは、今までの伝道生活の経験を踏まえて、この後、エフェソの教会にどのような問題が起こってくるのか、予測してこう告げます。

 

「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなた方のところへ入り込んできて、群れを荒らすことが、わたしにはわかっています。」

 

そして、

 

「また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとするものが現れます」と。

 

前半は、教会の外側から、教会を混乱に陥れる、働きです。そして後半は、教会の内部から生まれてくる、問題です。

 

外側の問題で考えられるのは、まず「迫害」です。また、パウロが告げた「福音」を否定する「違った福音」を持ち込む、偽の教師の存在も考えられます。

 

かつて、ガラテヤの教会では、「イエスを信じるだけではなく、律法を行わなければ救われない」という教えが、持ち込まれてしまい、福音を信じる喜びという、神の教会らしさを見失うということが起こりました。

その状態に陥ったガラテヤの教会に、パウロは手紙を書き、聖書を教えることで、問題を解決しようとしたのです。

 

また、教会の内部から発生した問題に悩まされていた、コリントの教会にも、パウロは何度も手紙を書きました。この内部問題も、神の言葉を教えることで、パウロは問題解決へと導こうとしたのでした。

 

しかし今、エルサレムに向かおうとしているパウロは、今後そういう「教える」という形で、エフェソの教会と関わることは、もはやできないと思っています。

 

だからパウロは言うのです。

 

「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に昼も夜も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)と。

 

もう、彼自身は、教会に教えることはできなくなる。

しかし、すでに「神のご計画のすべて」(27節)を、「ひるむことなく」、教会に伝えてきたのであるから、

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」とパウロは言い、「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」と、「恵みの言葉の力」に、すべて委ねるのです。

 

 

さて「恵みの言葉」というパウロの表現が、とても印象的です。

「恵み」とは、神が与えてくださった賜物という意味です。

つまり、神が与えてくださった「言葉」。そういう意味で、わたしたちは「恵みの言葉」としての「聖書」を手にしています。

 

この「恵みの言葉」こそが、信仰者を育て、造り上げていくのです。

 

 

 

 

 

その昔、わたしが山形の酒田で開拓伝道をさせていただいた時のことです。

開拓6年目に初めて地元の壮年の方がバプテスマを受けて教会員になりました。

そしてすぐに、私とその方とで「教会学校」を始めたのです。

妻は子どもたちの「教会学校」。そして私とその方は大人の「教会学校」です。

「聖書教育」という参考書を元に、最初はわたしがリーダーの役目をして、短くお話をして、互いに感想を言い合っていました。

しかし、そのうち「じゃあ、来週はリーダーをお願いします」と、バプテスマを受けて間もないその方に、リードをお願いしてみたのです。

今思えば、バプテスマを受けたばかりの方に、牧師に向かって、聖書のお話をしていただくというのは「無謀」な話です。でも、それによって、その方は自分から聖書を学ぶようになり、信仰者として急速に成長していかれました。

 

やがて、わたしたち牧師家族が、酒田を離れることに決まり、その方は近くの他教派の教会に、通い始めることになりました。

数年後、わたしが酒田に行った折に、その教会の牧師さんに挨拶に行きました。

その時牧師さんから、あの方が今も誠実に、教会に仕えておられますと聞き、本当にうれしかったことを思い起こしています。

 

 牧師であれ、何であれ、人間はいつかはいなくなり、教会のメンバーも、やがてすっかり、入れ替わっていくでしょう。

 もし教会のつながりが「人間関係」だけで成り立っているのならば、さまざまな問題や、人と人との別れのたびに、「教会」は分裂したり、人が離れたりを繰り返しては、やがて消えていってしまいます。

 

そうではなく、たとえ人は移り変わっても、永遠に変わることのない神さまとの関係に、一人一人がしっかりつなげられるようにと、「恵みの言葉」としての「聖書」が、わたしたちには与えられているのです。

「聖書」があるからこそ、2000年もの時を越えて、今日も「受けるよりは与える方が幸いである」といわれた、イエス様の言葉に触れることができました。

 

 イエス様の姿は見えなくても、わたしたちが聞いた「恵みの言葉」が、わたしたちのなかで生きて働き、わたしたちを愛する人へと成長させてくれると信じています。

 

最後に、コリントの信徒の手紙にあるパウロの言葉で、このメッセージを終わります。

「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えたものです。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植えるものでも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(1コリ3:5-6)

 

お祈りしましょう。

2022年5月1日主日礼拝メッセージ

ガラテヤ1章1節~10節
「ほかの福音などありません」


●序

5月になりました。教会の庭の「アヤメ(かきつばた?)」でしょうか?

5月の花が美しい紫の花を咲かせています。

悲しいニュース。不安な知らせに心痛めることの多い心を、美しい花々は、ただそこに咲いているだけで、慰めてくれます。

なにもしなくても、ただ、そこに存在しているだけで、命には価値がある。

その、当たり前でありながら、わたしたちが忘れがちなことを、神さまは、時々に美しい花を咲かせることで、気づかせてくださいます。

 

さて4月まで、わたしたちは共に、マルコの福音書を読み続けてきました。

「神の子イエス・キリストの福音の初め」と始まるマルコの福音書

わたしたちの罪のために、十字架の上で死に、復活させられたイエスこそ、「神の子」であり「福音」であると宣言するマルコの福音書


2月の後半から今も続いている、かの地の戦争の知らせに、全世界が心痛め、不安と恐れを感じる日々を過ごす中で、

何の罪のないイエスさまを、十字架へ追い込んでいった、人の罪の姿、救いようのなさを重ねつつ、絶望的な思いで迎えた、イースターの朝。


人の理解をはるかに超えた、復活のイエスさまとの出会いによって、

絶望は希望へと変えられていく。


「主イエスは、今、生きておられる」

罪と死に打ち勝ち、主は復活なさった。


だから大丈夫。「明日も生きよう、主がおられる」と、先週のメッセージでは、最後に共に、信仰を告白し、賛美の歌を、歌いました。


主の復活こそ、実に驚くべき、神の出来事であり、絶望を希望にかえる、逆転の希望です。

そして、その復活の希望は、人間の理解でも行いでもなく、ただ「信じ、委ねる」「信仰」のまなざしを通して、気づき、見えてくる希望でありましょう。


 先週の水曜日の昼のお祈り会のなかで、ある方が、「最近起こったつらいこと、いやなことばかりを考えて落ち込んでいたのに、あるとき、その状況の中にある良いこと、感謝なことに、心が向き始める、不思議な変化を体験しています」と、皆さんに「証」してくださいました。


 また夜のお祈り会においても、ある方が、身体の痛みに悩み、最近、大きな治療を決断し、結果的に、急速な回復を経験していかれるなかで、

今までは、ただ自分の決断が良かったとしか考えなかったのに、なぜか今回は、神様に導かれているのではないか、思わせられているのですと、「証」をしてくださいました。


人間の力の尽きたその先に、神は「復活」の希望を備えてくださっていた。

そして、わたしたちは、信仰によって、その神の愛の業。救いの業に気づいていく。


「福音」との出会い。復活のイエスとの出会いに必要なのは、わたしたちの知恵や力ではなく「信仰」であるのです。

 

●復活の主と出会った「パウロ

 さて、先週読まれた、復活のイエスさまとの出会いの後、ペトロを始めとした最初の弟子たちは、「弟子」ではなく、福音を伝える使命を託された、「使徒」と呼ばれるようになります。

 やがて復活のイエスさまは、天に昇られ、目には見えなくなるのですが、ペンテコステの祭りの日、約束された「神の霊」「聖霊」が、彼らのうえに降り、使徒たちは、大胆に、新しい言葉。復活したイエスは、罪から救う「メシア」であると、語り始めていきます。


そうして最初の教会がエルサレムに誕生し、次第にこの「福音」が告げ広められていくと同時に、ユダヤ人からの迫害も激しくなっていきます。


その迫害者の一人だったのが、熱心なユダヤ教徒の「サウロ」後の「パウロ」でした。


十字架につけられて死んだ、神に呪われた男が、メシアであるなどと告げるクリスチャンたちをゆるすわけにはいかないと、暴力的な迫害を行っていた彼。

ところが、その迫害のために、ダマスコという村に向かった途中で、その「復活のイエス」と、彼は出会ってしまう。

この復活のイエスさまとの出会いという決定的な経験を経て、彼は、自分が迫害していた教えを、むしろだれよりも深く理解し、だれよりも熱心に伝えていく「使徒」となっていくのです。


 そのパウロの伝道の様子が記されている「使徒言行録」は、教会学校と夕礼拝のほうで読んでいきます。


 主日礼拝では、その復活のイエスと出会い、深く深く、「福音」を理解させられた「パウロ」が記した手紙のなかから、特に「福音」の真理を明らかにしている、ガラテヤの信徒への手紙を、共に読んでいきたいと願っています。


●怒るパウロ
 先ほどは、ガラテヤの信徒への手紙の冒頭、1章1節~10節までが朗読されました。

他の教会に宛ててパウロが書いた手紙は、冒頭で感謝の言葉が出てくるのですが、この手紙の雰囲気は、冒頭からとても論争的かつ感情的です。

要するにパウロは、ガラテヤの教会に対して、怒っているのです。

そのパウロの怒りの理由は、6節に記されています。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」

これがパウロが怒っている理由です。


今日のメッセージタイトルは「ほかの福音などありません」としましたが、それはこのパウロの言葉を元にしたものです。

「福音」「良い知らせ」「グッドニュース」

それをパウロは、復活のイエスと出会い、人からではなく、神からの啓示として受け取った。

パウロはその「福音」を、4節で短い言葉で告げています。


「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」


わたしたちが、イエス・キリストの十字架の歩みを見つめ続けてきた、受難節のあゆみを通して、いやというほど示されてきた、この「悪の世」の現実。そして、その悪は、他人ごとではなく、わたしたち自身のなかに、自分ではどうにもできない「罪」としてあることを示され、その、わたしたちにはどうにもできない「罪」によって、イエス・キリストは十字架に死なれ、そして、わたしたちにはどうにもできない「罪」から、救ってくださるために、神はキリストを復活させられたという「福音」。「良い知らせ」


この「福音」「良い知らせ」は、徹頭徹尾、神がなさった恵みの業であり、この神の救いの業のなかには、一ミリも、人間の行いは入る余地がない。

100%。神による救い。神が遣わされたキリストによる救いの恵み。

人間はただ、この神の恵みを、自分を救う恵みとして、信じて受け取るだけ。


これが、復活のイエスと出会ったパウロが受け取った「福音」の本質であります。


この、人間の行い、努力、信心などの一切によらず、ただわたしたちの罪のために、キリストが死に、そのキリストを復活させられた、神の業のゆえに、

キリストを信じる者は、その信仰において、救われるのである。

これが唯一絶対の、パウロが受け取り、延べ伝えてきた「福音」なのであり、断じて「ほかの福音」とか「もう一つ別の福音」はないのだ。


むしろ、パウロがのべ伝えてきた「福音」に反する「ほかのなにか」を、これこそが「福音」であると告げ知らせるものがいるならば、それがパウロ自身であれ、使徒と呼ばれる仲間であれ、天使であるとしても、「呪われる」、つまり、神に裁かれるであろうとさえ、パウロは語るのです。

 

パウロのこの言葉の強さから、この「ほかの福音」という問題が、教会にとって非常に深刻で、本質的な問題であることが伝わってきます。


 その「ほかの福音」とは、キリストを信じるだけではいけない。まず「律法」を行うことが、救いには必要であるという教えです。

ユダヤ教からクリスチャンになった人々の中には、「これが福音である」と、異邦人の教会を訪ねては、パウロの教えを覆していた人々がいたのです。


●「ほかの福音」とは?

 彼らの言い分はこうです。「律法」は、神との契約なのだから、異邦人はまず律法を守り、割礼を受ける必要があるのだ。その上で、キリストをメシアとして信じなさいと。

この主張が、いわゆる「ほかの福音」として、パウロが開拓した、ガラテヤの教会の中に持ち込まれると、ガラテヤの教会は、むしろこの教えのほうに、なびいてしまっていたのでした。


このいわゆる「ほかの福音」の教えによって、何が引き起こされるのかといえば、

ただ、神の恵みによって、わたしたちは、そのままの姿で、罪赦され、救われるという、福音本来「喜び」が見失われていくのです。

そして、「律法」を行うという、自分の力に頼り始め、自分や他者を、「もっと頑張って善い行いをしなければだめではないか」と、裁き始めていくのです。

そういういわゆる「律法主義」によって、人がそのままで神に愛され、受け入れられるという、「福音」の喜びが見失われていくことになるのでした。

そして、実にこの問題は、、教会の長い歴史の中で、なんども繰り返されてきた、根の深い問題でもあるのです。


中世のカトリック教会が、キリストを信じるだけではなく、免罪符(贖宥状)をはじめとする、人間の良い行いも必要であると、「ほかの福音」を説いて、その結果として、教会が民衆を支配し、搾取するという、あってはならない姿へと堕落していく中で、


修道士だったマルティンルターが、このガラテヤ書やローマの手紙に、パウロが記した、キリストの信仰によってのみ、神の前に義とされる。救われるという、「福音」の神髄へと、立ち帰る運動を展開していったのでした。


これがプロテスタント教会が生まれたきっかけであり、わたしたちのバプテスト教会も、この「信仰義認」に立つ、プロテスタント教会に連なっています。

 

 約2000年前に、ガラテヤの教会で起こった、「福音」からの逸脱。

それは、決して、ガラテヤの教会だけに起こった問題ではなく、教会の歴史の中で、なんども繰り返されてきた問題です。

 

そして、この問題が根深いのは、いつのまにか、気が付かない間に、「福音」から離れていくという点にあります。


「キリストの復活」を信じることが、難しいことであるように、

人間の力、知恵、努力ではなく、「ただ十字架と復活のキリスト」を信じ、委ねることで救われるという、この「福音」にとどまることが、実は難しいことを、教会の歴史が、証してきたともいえるのです。


 キリストを信じるだけでは、なにか足りないのではないか?

もっと、わたしたちが、なにかをしなければならないのではないか。律法を行うこと、善い行いを行うこと、愛することをしなければ、神に愛されないのではないか。


このような誘惑による、不安から逃れ、安心するために、あるいは、周りの目を気にして、善いことを行おうとしてしまう。


言い換えるなら、喜びや平安からではなく、不安や恐れを動機にして、教会の奉仕であれ、献金であれ、何であれ、してしまうということは、他人ごとではない、わたしたち自身にも、どこか心当たりがある、問われることではないでしょうか。

 

●教会の課題として

 いわゆる、「カルト的な宗教」が、信者を熱心に働かせるための常套手段はなにかと言いますと、「働かないものは救われない」と教えることなのです。

あなたこのまま、いい加減な信仰生活を送っていたら「滅びるよ」と脅すことです。

そうやって恐れさせて、頑張って、自分で自分を救おうとさせることです。

パウロもかつて、熱心なユダヤ教徒、サウロだった頃。誰よりも熱心に律法を行っていた人でした。

その熱心さは、律法を守らないクリスチャンを、迫害するほどでした。

カルト的な信仰が恐ろしいのは、自分が救われるためなら、人を傷つけ、時に暴力をふるうことさえ、正義になってしまうことです。


 ある宗教は、二人組で家々を訪問して伝道しています。人を救うために、伝道していると信じて、熱心にしておられますが、訪問伝道にはノルマがあり、報告義務があり、そういう意味で、結局はそれをしなければ、裁かれるのではないかという、不安から救われるために、伝道をさせられているというのが、実体であると聞きました。


それらはすべて「ほかの福音」「もうひとつの福音」なのであり、結局は、自分の努力によって、行いによって、自分を救おうとする、律法主義であるのです。


●「福音」に混ざりものを入れない

わたしたちの力ではなく、ただ、キリストの恵みが、わたしたちを救う。

 この「キリスト」以外に、「人の行い」が必要であるとか、「ユダヤ人」でなければならないという、条件を加える教えは、決して「福音」ではありません。


そして、そのような、ほかの条件は、必ずしも「行い」とは限らず、「民族」とか「国」という条件を、「福音」に加えることも、あるのです。

 

第二次世界大戦のドイツにおいて、ドイツ的キリスト者と呼ばれる、国粋的なキリスト者現れました。


キリストを信じると言いながら、同時にドイツ人がもっとも優秀であるという、民族の誇りを強調するキリスト者たちは、ユダヤ人差別と、ナチスへと協力を行いました。

このような「福音」からの逸脱が起こった時、しかし、神は、あのルターを、改革者として立てたように、福音に立つのだと、ドイツ的キリスト者を批判する、勇気ある人々を立てました。


彼らは、バルメン宣言という、信仰宣言を公にしています。

その最初は、こういう宣言で始まります。

「聖書において証されているイエス・キリストは、われわれが聴くべき、また生と死において信頼すべき、服従すべて神の唯一のみ言葉である」と。

そして、この神のみ言葉の他に、またそれと並んで他の出来事や、力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないという誤った教えを、我々は退ける」と。


教会の中で、キリストの言葉を信じるだけではなく、ほかの何かが必要とされることを、断じて退けると言い切った彼ら。


今、キリスト教の一つ、ロシア正教が、ロシア民族の祝福のためにと、国の戦争に加担していることに、心を痛めつつ、

今また、このバルメン宣言の言葉に、立ち帰らなければならないと、痛烈に思わせられているのです。


キリスト以外に、なにか必要であるかのような、そういう誤った教えを、我々は退けるのだと。

それは約500年前に、マルティンルターが、当時のカトリック教会に告げたことばであり、約2000年前にパウロが、ガラテヤの教会に告げた言葉でもある。

「もう一つ、別の福音がある」わけがないのだ。

私たちの望みは、今も生きておられる、復活の主。イエス・キリストの恵みだけなのだ。

自分の力、頑張り、民族、国の誇り、プライド、そんなものが我々を救うのではなく、

ただ、わたしたちの罪のために、神の御子がその命を捧げてくださり、罪から救い出してくださった、


この神の愛と恵みの救いだけが、わたしたちの希望であり、喜びであり、のべ伝えるべき「福音」なのであると。


今日の最後のところ、10節で、パウロはこう語ります。


「 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」

 

 パウロは、キリストの十字架と復活の「福音」を宣べつたえる旅の中で、この人に取り入ろうとする誘惑と、きっと何度も戦ったのではないかと思います。


当時の知的な人々が集まるアテネにおいては、彼らに受け入れられるようにと、知識人が喜びそうな内容で伝道しました。しかし、最後に、キリストの復活を語るところにいたり、アテネの人々は去って行ったのです。

また、ユダヤ人の会堂で、イエスこそメシアであると告げると、口汚くののしられ、馬鹿にされました。


キリストの十字架も復活も語らずに、ただアテネの人々が、また、ユダヤ人たちが、喜びそうなことを、語ってさえいれば、あるいは、迫害されることもなく、穏やかな日々を生きられたのかもしれません。

 

しかし、復活のイエス様に出会い、律法を行う自分の努力に縛られ苦しむ、律法の奴隷から解き放たれ、

この罪あるままのわたしを、赦し、受け入れてくださる、キリストの恵みの「福音」を伝えたいと、苦難をさえ喜ぶ、キリストの僕として、彼は生きている。

 

わたしたちもまた、罪あるこのままの姿で、赦し受け入れてくださる、キリストの恵みの「福音」から、離れずにいたい。

 

「もっと愛さなければ」「もっと捧げなければ」、わたしは、あなたは、神に裁かれ、見捨てられるという、恐れをもたらす「ほかの福音」に誘う、あらゆる誘惑から離れ、

 

ただ、神に生かされているいのちを生き、美しく咲く花のように、

ただこのままのわたしたちを赦し受け入れてくださる、キリストの恵みの「福音」を、まっすぐに信じて、

神に愛されているわたしたちとして、新しい一週間を歩みだしていきましょう。

 

プーチンとロシア正教 国と宗教の狭間で

 ロシア正教会のキリル総主教が、ロシアによるウクライナ侵攻を肯定していることが、他の正教会カトリックプロテスタント諸教会を困惑させ続けています。

 そもそも正教会とは英語では「オーソドックスチャーチ」となります。その言葉には、伝統的で正統なキリスト教というニュアンスが込められています。また正教会は「東方教会」とか「東方キリスト教」と呼ばれることがあります。それはローマカトリックプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、正教会は、ギリシャ、東欧、ロシアなど東方へと広がったからです。また「ギリシャ正教」と呼ばれることもあります。それは正教会が育った土壌が「ギリシャ文化」であったからです。

 正教会は、それぞれの国に伝道され、発展していく過程において、その国の文化を取り込み、独立していきました。独立した一つ一つの国の正教会には、「主教」が立てられ、その国の正教会全体を司ります。ですから一般的には正教会は、その国の名前を頭につけて呼ばれています。ロシアでは「ロシア正教会」、アメリカでは「アメリカ正教会」、そして日本では「日本正教会」となります。この「国」「民族」という概念と、「教会」が密接に結びついているのが、「正教会」の特徴でもあります。

 

 実はウクライナの国民は、7割が正教会の信者と言われています。ウクライナ正教会の構図は非常に複雑で、「ロシア正教会」傘下の教会と、2019年に独立を果たした「ウクライナ正教会」。さらに正教の教えに従いながらバチカンカトリック)に仕える「東方カトリック教会」の三つの流れがあります。

 特に2019年の「ウクライナ正教会」の独立に際しては、「ロシア正教会」が激しく反発し、プーチン大統領が「危機的な結果をもたらすことになる」と警告したと言われます。

 プーチンはかつて「宗教と核の盾がロシアを強国にし、国内外での安全を保障する要だ」と語りました。自由・民主主義を柱とする欧米の価値観に対して、専制体制を敷くプーチンは、ロシアの精神的な支柱として「ロシア正教会」を後押しし、政権の求心力にするために、自ら頻繁に教会に姿を見せ、復活祭は政権幹部が揃ってモスクワの教会で祝うことさえしてきました。プーチンウクライナベラルーシを「ロシアと一つの民」と呼び、ロシアの勢力圏として正当化する時に使う「ロシア世界」という考え方は、正教会のつながりを根拠にしていると言われます。2021年7月にロシア語とウクライナ語、英語で発表した長大な論文の中で、プーチンはこう強調します。

「ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人はみなルーシの子孫であり、一つの言語、そして正教会の信仰で結びついている。ウラジーミル公の精神的な選択がいまも我々の親密な関係を決定付けているのだ」

 プーチンがこの思想のもとに、今回のウクライナ侵攻を決断したのだとすれば、この戦争には教会の信仰が深く関わっていることになり、同じキリスト者として、私たちの信仰もまた、問われなければならないのではないかと、思わせられているのです。

 ひるがえって、宗教と国家が結びつくことの危険性を、かつてこの日本は痛いほど学んだことを思い起こします。天皇を現人神に祭り上げ、政治権力と結びついた「国家神道」により国民は束ねられ、「我々は選ばれた神の国である」と八紘一宇(「全世界を一つの家にすること」)のスローガンのもと、アジアへ侵略し、壊滅的な敗戦を迎えた歴史を改めて思い起こすのです。

 神への信仰が、力と繁栄を求めるものとなり、結果として国と結託するなら「神のみ名が汚され」ます。ゆえに私たちは「剣を持つものは剣によって滅びる」と言われた主イエスのみ言葉にこそ従い、力による自国のみの平和ではなく「国を越えた普遍的な平和」をこそ、祈り求めるものでありたいと願うのです。

「情報戦」「認知戦」の時代に

 ロシアとウクライナの戦争において、「情報戦」「認知戦」という言葉を聞くようになりました。

「情報戦」とは、国のコントロールによる大手メディアからの情報によって、相手国中枢の判断ミスを目的にする戦いのことです。その際のターゲットは「政府機関」や「スパイ」でした。

 ところが現代は「情報戦」から「認知戦」の時代に移行していると言われます。「認知戦」においては、大手メディアやSNSなどによる真偽不明の映像やニュースなどの情報によって世論に働きかけ、自らの正当性と敵対者の不当性を刷り込み民意を操作します。意図的に動かされた「民意」によって、相手国の政治的決定をコントロールする戦い。それが「認知戦」です。要するに「認知戦」とは、現代における洗練された「扇動」合戦ということです。

 

 マルコの福音書から主イエスの受難の出来事を読み進めるなかで、あらためて気が付かされているのは、主イエスを十字架に押し上げていった背景に、当時のユダヤ社会の権力者集団の陰謀があったことを、福音書は証言する書であるという側面です。

 ユダの裏切りによって捕らえられた主イエスは、つじつまの合わない「証言」を元に、ユダヤ議会の不当裁判によって死刑の宣告を受け、死刑執行権のあるローマ総督ピラトに、イエスの死刑を受け入れさせるために、祭司長たちが民衆を扇動したことを、福音書は「証言」しています。

 

 祭司長は巧みに民衆を「扇動」し、「十字架につけよ」と主イエスに向かって叫ばせ、ピラトの政治決定を動かすことに成功しました。まさに「認知戦」による勝利です。それと同じことが、現代はさらに巧みに行われていることに気づかれないまま、私たちはあらゆるメディアの情報を無批判に受け取っています。もし「あらゆる報道が同じトーン」となり、それに影響された人々が「同じ意見を言い始め」たり「違った見解、意見、反論に耳を貸さなくなる雰囲気」が醸成されているならば、「認知戦」に巻き込まれているかもしれないと、疑う必要があるとわたしは思います。

 

先日のゼレンスキー大統領の国会演説の直後、演説の言葉に応答した、ある自民党の議員は、こう言いました。

「命をも顧みず、祖国のために戦っている姿を拝見してその勇気に感動しております」

 

戦前、このような勇ましい発言を、批判するようなものは「非国民」と呼ばれました。今はどうなのでしょうか。この国会議員のように、「国を守るために戦うのだ」という勇ましい言葉を語る人々が増えていく流れの中で、「剣を持つものは、剣によって滅びる」とか、「敵を愛し害する者のために祈れ」といわれた、主イエスの言葉を語る人々は、やがて「非国民」と言われる時がくるのでしょうか?

 

 宗教改革者のマルティン・ルターは、当時の教会が当たり前のように行っていた「贖宥状(免罪符)」を始めとした間違った事柄に対し、聖書の言葉を根拠に問いました。またバプテスト教会の先達たちは、イギリス国教会が当たり前のように行っていた「幼児洗礼」などの事柄について、聖書の言葉を根拠に問いました。いずれのケースも、当時の国(教会)権威によって刷り込まれていた考え方を、聖書の言葉に立ちもどって問い正すという出来事であります。わたしたちの教会は、この先達の信仰の流れの中から生まれた教会です。

 

ヘブライ人の手紙4章12節にこうあります。

「・・神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」

 意図的に流される情報により、自分自身を見失うことのないように、主イエスの言葉によって、自分の今の思いや考えを問うことで、見分けていくものでありたいと思います。

旧約聖書箴言

「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」(箴言4章23節)

 

という言葉がある。私の好きな言葉だ。

 

一個人には、不安な社会状況を変えることはできないが、

 

不安になりがちな自分の心を守ることはできる。

 

むしろ、一人一人が自分の心を守ろうとする営みによって、

 

社会は徐々に安定していくのではないだろうか。

 

 

テレビで会えない芸人を観た風刺

ポレポレ東中野で「テレビで会えない芸人」を見た

 

芸人、松元ヒロのドキュメント映画。

 

松元さんは、政治の風刺で笑いを取る芸人。

恥ずかしながら、今まで知りませんでした。

若い頃は「ザ ニュースペーパー」というグループの一員として、テレビで活躍した時代もあった方。

しかし、だんだんテレビ側から、政治家を批判する芸にクレームが入るようになって、芸を捨てるのではなく、テレビを捨てた、本物の「芸人」

生前、立川談志から、今は、テレビからクビになることを恐れているサラリーマン芸人ばかりだが、松元さんは、本物の芸人だと言ってもらったのだそうだ。

 

「言いたいことを言い続ける」松元さんの姿を見ながら、私もかくありたいと、励まされた。