裸の王様

shuichifujii2013-07-04

 庭のぶどうが実ってきました。

 さて、いつも思うのは、社会的問題や政治問題など、ある事柄を主張するためにあつまる集会は、基本的にその主張に賛同する人を集めてするわけで、そこにおいてその主義主張をあらためて語ることに、どれほど意味があるのだろう、という素朴な疑問。

もちろん、一人一人の意識を強め、励まし合うことの意味は十分にあるんです。

しかし、そういう賛同者の集まっているところで、主張しているばかりじゃ、結局、誰の考えも変わらないし、変化は生み出さないんじゃないか。かえって、そこから出ていって、その主張に賛同しない人や、その主張を知らない人に対して、批判を覚悟で語り、対話するところにこそ、変化もうまれるはず。

 「いいお話ですねー」なんて言ってくれる賛同者だけに囲まれているときしか、主義主張を語れないでいたら、いつのまにかその人は、「自分は大したものだ」と勘違いする裸の王様になってしまう。

 自分が本当に大切に思っている、信じていることなら、人から理解されなくても、無視されても、バカにされても、そんな出会いのなかで、まっすぐに語りたい。

 これは、福音のメッセージを語るべき、牧師としての私へのチャレンジなんです。

 福音を知っている人に向かってばかり語り続けていると、裸の王様になってしまうんじゃないか。

 福音を知らない人、批判的な人に、御言葉を伝え、神の愛に生かされてきた自分の人生を証するなら、あるときは無視をされ、ある時は白い目で見られ、ある時は批判されるもの。でも、そんな貴重な出会いは、自らを裸の王様にさせないための宝だ。


 「恐れ」を乗り越え、新しい変化を生みだす御言葉の力を信じ、語りつづけられますように。


新約聖書 使徒言行録18章9節〜
「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。
わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」