一匹の羊の声を

shuichifujii2012-11-21

 今日は午前中お祈り会。実に深い語り合いと祈りの時でした。感謝です。

 さて、夜は、改築中の子どもたちの小学校の敷地内に、新たにコミュニティーセンターを建築するという計画について、小学校のPTAに対し、市が説明会を開いたので、一保護者の立場で参加してきました。


政としては、「地域」の要望を受け、また、おおむね了解を得て、学校の敷地内に建築を決めて話を進めてきたと語っていました。
ただ、現在の小学校の駐車場をつぶしてコミセンを立てる計画なので、代わりに小学校の敷地内に代替えの駐車場をいくつか小分けに確保する計画を提示してはいますけれども、

小学校に車が出入りする際、子どもたちへの安全が確保できるか、その課題はちゃんとクリアできていない状況

なんですね。



 ですから、PTA会長はこの説明会の場で、冒頭「小学校関係者は、この件について了解していません」ということを言われますし、なのでわたしは、

「小学校のPTAが納得していないのに、ここまで計画を進めてきたのはなぜですか」と質問をしましたけれど、

「納得していないのはPTAだけで、他の地域の他の方々には納得してもらっている」というようなお答えをいただいて、内心(えーそりゃないよー)と思ってしまいました。


地域」の要望といわれますが、その「地域」とひとくくりに呼ぶコミュニティーの内実には、多少分断があるようです。

 私見ですが、雑駁に言ってしまえば、コミュニティーセンターを強く必要と考えるのは比較的高齢の方々。一方、その建設によってある程度犠牲を強いられる、小学校の子どもたちの親世代。その世代間の意識の違いや、コミュニケーションのギャップが、このコミセン建設を巡って、浮き彫りになったように思われます。


 小学生の親世代は、仕事において現役世代で共働きも多く、当然地域活動への参加率は低くなる。それでも熱心な保護者の方は、何とか地域活動にかかわろうと努力しておられますけれども、やはり人数や影響力的には弱者となる。その状況の中で、行政が「地域の要望をもとに」といっても、その「地域」の意見とは必然的に、地域活動に参加できる現役を退かれた方々の意見とほとんど重なっていくだろうと思われます。



 そのように「地域」の意見とか要望の内実はそういう状況であったとしても、今回説明会に参加した小学生の保護者達は、なにも「コミセンなんていりませんN」とまでは言っていないのです。多くの方々が問題にしていたのは、コミセンをなぜ学校の敷地内に建てるのか、という一点でした。



 言いかえれば、コミセン建設は結構ですよ。でも、なぜ、わたしたち(子どもたち)がそのために、学校の敷地を狭められて、安全に不安を感じつつ生活をするという、「犠牲」を強いられるのですか、という問いなんです。



の議論を聞きながら、犠牲のシステムという考えを思い出しました。つまり、誰かのために、誰かが犠牲になるという構造への批判です。

 最近の例でいえば、東京に住む人たちの電力のために、福島の人々が犠牲を背負っていたという構造や、沖縄が米軍の基地を背負うことで、本土が助かっているという犠牲の構造です。

 むろん犠牲になるのは、いつも弱者。コミセン問題で言えば、小学生の子どもたち。そういう構造をこのコミセン問題にも感じてしまいます。

 民主主義は多数決で最後は決めてしまうけれど、そういう力による意思決定によって、結果的に弱者に犠牲を押し付けてはいないか、注意したい。

 イエスさまは、こんなたとえ話をなさいました。100匹の羊を飼っている羊飼いがいて、野原で一匹を見失ったとしたら、99匹をその場において、見失った一匹を見つけるまで探すというたとえ話です。これが天の父の価値観。

 「1匹ぐらいいなくてもいいや。まだ99匹いるから」とか「1匹を犠牲にしよう。99匹を救うためだ」という実利的価値観ではなく、1匹を見失ってしまったらなんの意味もないのだ、必死に探し続ける羊飼いにたとえられた、天の父の価値観。

 犠牲という側面で言うなら、わたしたちの罪のために、御子イエスさまがすでに十字架の上で命を捨てて犠牲になっておられるので、もう、だれも、だれかの犠牲になどならなくてもいいという、人間同士の抑圧からの自由と解放。それが福音。

 この天の父の価値観、福音を信じるものとしては、ぜひ迷って泣いている1匹の羊を見捨てないで、時間をかけて探しだし、100匹みんなで喜びあう「地域」としての「コミセン建設」のプロセスを大切にして欲しいと思ったわけでした。