教会とお金の関係

 今日は午前中、強い風と雪でしたけれども、ユキティさんとママさんが礼拝に来てくださいました。雪道の運転なので、教会までご主人に送っていただいたそうです。ご一緒に礼拝できたらよかったのですけれども、奥様いわく「シャイですから」ということで・・礼拝が終わるまで、どこかで待っておられたようでした。ぜひ、次はどうぞ、お待ちしています。


 礼拝に来ていただくと、本当に喜びです。家族みんな心が温かくなります。不思議な喜びがあります。お金では買えない喜びであり、ぬくもりです。



 でも、ある人は、「いくらきれいごとをならべても、結局、宗教はお金じゃないか」というかもしれません。


 確かに、教会は、お金のことなんて、なんにも関係ないような振りをするのは、不誠実ですね。


 礼拝のなかでは、神様への感謝として、自由意志による献金の時間がありますし、その献金は、具体的には、教会の働きや伝道活動のために使われます。牧師家族の生活費も、献金によって支えられます。
 勇希のミルク代もまた献金です。


 現実には、いまののぞみ教会の礼拝で捧げられる献金では、教会は、存続できないので、東北にある仲間の教会の方々をはじめ、有志の方々が、犠牲を払って献金してくださり、支えられています。


 これは一般の人からみたら、「カンパ」のようですが、違います。「カンパ」とは、たとえば、義理とか人情とか、藤井たちがかわいそうとか、そういう人間的な温情による動機だったり、なにか見返りを期待したりと、というものです。しかし、「献金」は、神様への感謝として、一人ひとりが、自由意志によって捧げられるものを、神様の働きのために、用いるということす。


 自由意志ですから、べつに、捧げてもいいし、捧げなくてもいい。まったくの自由。だれからも強制されることはありません。また捧げたからえらいわけでも、捧げなかったから、悪いわけでもなく、自分が感謝したいから捧げるだけ、というまったくの自由意志。これこそ、教会の献金のとても大切なポイントです。


 世の中の悪い宗教は、「捧げないと、罰が当たる」とか、「沢山捧げたら、御利益がある」とか、「人からほめられる」とか、そうやって、脅したりすかしたりします。宗教心を利用して、お金集めをしたりします。そういうことを、イエス様は、厳しく戒められました。


「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(新約聖書 マタイによる福音書6章2節以下)


 教会の献金は、ただ、神様への自発的な感謝の捧げものです。そして牧師は、それによって支えられることで、自力で生きているのではなく、神の恵みによって生かされているという、信仰の心構えをもって、よい働きをすることができます。


 さて、わたしが以前、まだ公務員をしていたときは、一生の生活の保障をもとに人生設計ができました。それを国が保障してくれました。ある意味、当時のわたしにとって国が神様でした。公務員を辞めることは恐ろしいことだったのです。


 しかしいま、献金で支えられているわたしたちには、先の保障がない代わりに、恐れもありません。まことの神は、必要なものを備えてくださると、ゆだねる訓練をさせていただいています。


 本当の神を信じる歩みは、チャレンジの道ですが、真の自由をもたらす道でもあるのです。


 教会とお金の関係

 実は、とても深いテーマですね。