「ピンチはチャンス」

1年半ほど前に、教会の月報の巻頭言に書いた原稿の一部です。

 2050年の日本の教会についてイメージしたことがありますか。

日本の人口減少はある程度予測可能で、労働者は現在の6426万人から4228万人に減るのだそうです。

日本の市場も経済も3分の2になります。

右肩上がりの経済成長の時代はもうこないでしょう。

戦後の経済成長の時代に建てられた多くの教会は、経済の成長とともに教会も成長し、

経済の停滞と共に教会の活動も停滞、そして衰退しているように見えます。

そのようななかで、今後、右肩上がりの時代に形成された、教会活動、伝道方策、組織論などが問い直され、

より一人ひとりが大切にされ、互いに支え合う共同体という、教会の本質へと向かっていくように思っています。

どのような立場であろうと、互いの尊厳を認めあい、

共に悲しみ、共に喜ぶ仲間となり、繋がりあっていく方向へ、

さらに日本の教会は向かっていくことになると思っています。

 具体的なイメージでいうなら、今までの参加者の人数を数えては一喜一憂するような、集会中心、イベント中心の教会のありようから、

人と人とのパーソナルな繋がり中心、絆中心の共同体形成へ向かっていく、ということです。

 昔の日本には、20万人のキリスタンがいたと言われます。

そのとき神父の数は40人。5000人に1人の神父だったのだそうです。

それでも信徒の信仰が保たれていた背景には、互いに助け合う「コンフラリア」という信徒のネットワークがあったからでした。

その助け合いの共同体のなかで、聖書の教理も学ばれていたようです。

まさに、わたしたちバプテストが大切にしてきた、相互牧会の姿です。

 信徒しかいないので、信仰が維持できないということはありません。

どの時代にあっても、困難な時代ほど、信徒同士が互いに聖書を学びあい、祈り会い、支え合うことで、信仰共同体は守られてきました。

右肩上がりの時代には、牧師も旗振り役のようなリーダーシップが求められましたが、

これからの時代は、教会の本質に立ち返り、信徒の信仰共同体を支えるサポーターとしてのリーダーシップへと、ますます移行していくでしょう。

 そういう意味で、これからの日本の教会は、大きなチャンスを主から与えられたのだと思っています。

経済成長と共に、自分だけの祝福を求めてつどう、バラバラな個人の集いから、

互いの弱さを支え合い共に生きようとする共同体へ。

現代ますます家族や地域という支え合う共同体が弱まるなかで、

信仰共同体のもつ繋がりの強さ、互いに支え合い祈りあえる仲間の価値。

ここに「神の国」の希望が見えることを証していく、新しいチャンスを迎えています。

いつでも、ピンチはチャンスです。

ルカによる福音書12:32
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」

「恐れず語り続けよ」(2018年2月4日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)


使徒言行録18:1-11

今朝は、少し寒さが緩んだでしょうか。金曜日に降った雪も、だいぶ溶けて少なくなりました。

あらためて考えてみると、「雪かき」という労働は、報われない働きですね。

重い雪を運び続けても、結局みんな溶けてなくなってしまうわけですから。

そういう意味で、雪国のかたは、本当にご苦労だと思います。

わたしも山形にいたとき、冬に東京に出張でやってくると、思ったものです。

「東京はいいな。空は青いし、雪かきのような、無駄な苦労を、しなくていいのだから」と、内心思ったものです。

もし、雪国の人と、冬に東京で会うようなことがありましたら、おそらくその方は内心で、「いいなぁ、東京は」と思っていますから、ぜひ、「雪国は雪かきが大変ですね」と、ねぎらってあげてくださいね。

でも、今、わたしは思うのです。

確かに、目の前のことだけを見れば、無益に思えた働きも、神の目には、決してそんなことはないのだと。

あんなに苦労して運んだ雪が、春には溶けて、結局、なにも残らなかったように思っていた、その雪が、

実は、溶けて大地を潤し、やがて、豊かに豊かに、地面から新しい命を、農作物を実らせることになるのです。

山形にいたとき、地元に人から、「雪が沢山降った年ほど、豊作になる。雪が降らない年はだめなんだ」と教えてもらいました。

天地を造られた神さまは、決して無駄なことはなさいません。

それは「伝道」「福音を伝える」という働きも、まさにそうです。

「十字架に死んだイエスは、復活し、あなたを救うメシア、キリストとなったのです。このイエスを信じ、罪の束縛から救われましょう。」


この福音を、あらゆる形で伝えつづけてきたのに、なにも変わらない、そんなむなしさを感じることもあるでしょう。

むしろ、福音を語ったことで、偏見を持たれたり、距離を置かれたり、そんなこともあるかもしれません。

最初の教会の伝道の様子が記されている、使徒言行録を、わたしたちは読み進んでいますが、

最初のクリスチャンたちは、主イエスの復活を語ることで、ユダヤ人から罵られ、迫害さえされたのです。

目の前のことだけをみるならば、伝道という働きほど、報われない働きはありません。

むしろ、こんなことになるなら、やめておけばよかったという、辛いことが多い働きです。

しかし、目の前のことだけを見るなら、そう見える「伝道」という働きを、

しかし、あきらめることなく、やり続けた教会は、

やがて、エルサレムの小さな群れから、いつのまにか世界中へと広がり、

今、2000年の時を越えて、この花小金井教会を誕生させたのです。

そして、わたしたちも次の世代に向けて、福音を伝え続けます。

雪解け水が、やがて沢山の豊かな命を生み出していくように、

神の命の水、聖霊は、今もわたしたちの中で、豊かに働いておられます。

さて、一番最初の教会で、聖霊に動かされた人々の物語。

使徒言行録を、今日も、読み進めていきましょう。

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「なぜ怖がるの」(2018年1月28日花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

マルコ4章35節〜41節

人生には三つの坂があるという言葉を、ご存知ですか。

一つ目は、上り坂。まあ、若い時のことですね。
そして二つ目は、下り坂。年を重ねて、だんだんできることが少なくなっていくことでしょうね。

そして三つ目は、なんでしょう。
「まさか」です。


ある日突然、その「まさか」が起こる。それが、この地上で生きている、わたしたちの現実ですね。

違う言い方をすれば、人間は、ほんの少し先の未来も、分からないということです。

信仰的な言い方をすれば、神さまによって、未来は隠されている、と言えるでしょう。

明日なにがあるかわからないから、「不安だ」というよりも、

むしろ、明日なにがあるかが分かってしまう方が、辛いかもしれない。

明日、いやなことがあるとわかったら、もう、今日から辛くなってしまうでしょう。

なので、人間は、明日のこと、1分先のことさえわからないのは、

神さまの憐れみだと思います。

明日どうなっているか、10年後、どうなっているかなど、わからないし、わからなくていいということです。

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もう一つのブログ「生きる喜び」

shuichifujii2018-01-31

このブログはもう10年以上も書きづつけていますけれど、

この「はてなダイアリー」は基本的に日記ブログなんですね。

日記ブログではできることに限界があるので、独自にブログを立ち上げました。

生きる喜び.com


です。

これから記事を加えて成長させていきます。

メールマガジンも始めています。

新しいブログのページから登録できますので、よかったらどうそ。

今後ともよろしくお願いします。

「働き方」の法律を作るより、経営者のマインドセットを変えないとね

通常国会で審議され、政府は5月に成立させたいとねがっている「働き方」関連法案

そのポイントは、

■残業時間上限規制
・残業時間の上限を720時間、2〜6ヶ月平均で80時間以下、単月で100時間未満とする。罰則も。

■「残業代ゼロ制度」創設
・年収1075万円以下の金融ディーラーや研究開発などの専門職を労働時間規制から外し、残業代や深夜休日の追加賃金を支払わない

同一労働同一賃金
非正規の待遇改善を図る「同一労働同一賃金」を推進し、給与や賞与などで正社員との不合理な相違をなくす



さてそもそも、月に100時間では、過労死ラインを超えている、という批判もありますし、

残業しないと生活できない低賃金がなんとなならなければ、結局残業はなくならないだろうし、

「残業代ゼロ制度」は、むしろ長時間労働への道を開いているし、

同一労働同一賃金」という一見平等に思える言い方も、

本当にそれを実現するためには、「正規雇用労働者の給与切り下げも視野に入れた給与制度の見直し」もセットで考えなければ無理だということになれば、

結局は、正社員を非正規社員のレベルに下げる「方便」だったのね、ということにもなりかねないし、



さてわたしは、そもそも国がこういうことを言い出す前に、

経営者の考え方、マインドセットこそが、重要だとおもうのです。

社員を、人として尊重するとき、奴隷のように酷使などできないでしょう。

社員に対する愛が冷えれば、企業の生み出すものの質や価値も落ちこみ、業績が下がって、人への愛がさらに冷える。

このネガティブスパイラルを引き起こすのも、とめるのも、

経営者の「考え方」マインドセットが非常に重要だとおもうのです。

「新しい入れ物へ」

わたしは昨年度はバプテスト連盟の総会議長、連盟の音楽専門委員、東京連合の副会長、東京バプテスト神学校の理事など、教会と教会が協力して福音宣教を行っていけるように繋いでいく働きの幾つかに関わらせていただきました。

そのような関わりを通して様々な情報を耳にします。

今、多くの教会の現場において、これまでの活動、組織、やり方などを、変えていかなければならない状況に立ち至っていながら、

実際にはなかなか変えられない葛藤を感じているような印象を受けています。


教会において組織や活動は、いわば「福音」という中身を運ぶための「入れ物」です。

「福音」という中身は変えてはいけませんが、「入れ物」は時と場所によっていくらでも変えていいものです。

むしろ料理によって「器」を変えるように、「入れ物」は時代とともに柔軟に変えていかなければなりません。

それは使徒パウロ

ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。・・・弱い人に対しては弱い人のようになりました。・・・すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」(1コリント9:20-)

と語ったことにも通じます。

「入れ物」は文化、時代、出会う人々によって入れ替え可能です。

いくら中身が素晴らしくても、「入れ物」が古いままでは骨董品だと思われてしまいます。


もし、若い世代の人々が、教会に魅力を感じないとすれば、それは「福音」という中身に触れる前に、教会の組織、活動という「入れ物」が、骨董品に見えてしまっているからかもしれません。

今の時代、これからの時代にみあう「入れ物」へと変わっていくために、もう一歩一歩新たなチャレンジをしていけますように。

「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。

もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、 そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。

まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。

『古いのが良い』と考えているからである」

ルカによる福音書5章37節〜39節)