人間の認識能力には限界があるので、実はわかっているようでいて、わからないことだらけなんです。
今や、インターネットや携帯電話で、世界中の情報を認識できるようになったようだけれども、
実は、隣の家の人が、今なにをしているのか、何を考えているかさえ、わからないのだから。
この、「実は自分はわかっていない」「知らないことだらけ」
そんな認知に限界ある存在であることに気づいたり、そういう自分を受け入れることは、
幸いに生きるために、大切なことの一つ。
「自分はよくわかっている」という思いが、不幸を招く一例として、
例えば、特定の国の人を、「●●人はこうだ」とひとくくりにして、バッシングする人たちがいるでしょう。
それは、その国の人々と具体的に出会っていないか、知っているとしても、ほんの少しのことを、それがその国のすべてであるかのように決めつけてしまうので、
「●●人出ていけ」みたいなことがいえるわけでしょう。
その国にもさまざまな人がいて、それぞれに一生懸命いきていることを、知れば知るほど、一方的な決めつけはできなくなるものじゃないですか。
よくしらないことを、「もうわたしは知っている」と思うとき、人は頑固になったり、不寛容になってしまうのでしょう。
もしかしたら、神様が、人間の認識能力に限界を設けてくださったのは、高慢になって滅びてしまわない為の憐れみなのかもしれません。
認識能力に限界がある人間は、神ではないのだから、知らないということを、恥ずかしいと思わなくてもいい。
むしろ、しらないのに、知っていると思い込むと、不幸になるでしょう。
一番身近な家族のことさえも、まだまだよく知らないこと、わからない部分、人格のもっている奥深さ、神秘が、隠されているのに、
親は子どものことを、「親なんだから、自分が一番よく知っている」と思いこむもの。
でも、子どもは「わかっていないのに、わかったように決めつけないで」と思っているわけです。
わたしは子どもの頃、親に対して、そうおもっていたし、きっと、子どもも今、親に対してそう思っているだろうなと思います。
自分自身についてさえ、まだ知らない部分がたくさんある。
むしろ、人から教えてもらうとき驚いたり、そんなばかなと、否定したくなったりするくらい、自分で自分のことを知ることも、難しいもの。
ましてや、神様のことを知っていく、などとということは、これは実に、終わりのない旅なんです。
その旅路に必要な心はやはり、
「まだよく知りません。わかりません」という心だし、
与えられた新しい発見、気付きを受け止めていく、
柔らかな心。
なんだろうなと、思うのです。