執着と自由

今日の黙想(西九州地方連合を覚える日)

イザヤ6章

「主は言われた
『行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と』9節

イザヤが預言者として召されたときの、主の言葉。

理解させるために、悟らせるために語るのではなく、むしろかたることで、民がかたくなになるということが言われていく。

「かたくなになる」とは、言い方を変えて言えば、執着することであり、握りしめること。

主の言葉はむしろ、自由を与える解放の言葉である。

その解放の言葉が、むしろ「かたくな」にさせるのだとすれば、人間は実は「自由」を望んでいるようでいて、むしろ「自由」を恐れているのかもしれない。

なにかに囚われ、奴隷でいることのほうが、むしろ余計なことを考えないですむということもあるのだろう。

自由で、新しい発想で、クリエイティブであることに対して、人は、かたくなに心を閉ざすということもある。


イザヤはそれは「主よ、いつまででしょうか」11節と問い、主はこう答えられた。

「町々が崩れ去って、住む者もなく
家々には人影もなく
大地が荒廃して崩れさるときまで」11節後半

かたくなに執着することは、自らを滅ぼしていく

そして残された新しい命の芽生えに期待する言葉がつづく。

「なお、そこに10分の1が残るが
それも焼き尽くされる。
切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。
しかし、それでも切り株が残る。
その切り株とは聖なる種子である」13節


いつの時代であっても、かたくなに執着し滅びていくことと

神の言葉によって、自由と解放の新しい命に生きることとが、

隣り合わせ、なのだろう。