ある本にこんなことが書いてあった。
善い王様は「自分は国に対して何ができるか」を考える。一方、奴隷は「国は自分に対して何をしてくれるのか」と考える。
家庭もある意味、国。王様マインドは「自分は相手に対して何ができるか」と考えるが、奴隷マインドは「相手は自分に対して何をしてくれるのか」と常に考える。
相手に与えることを常に考える王様マインドの夫婦は幸い。
奴隷マインドの夫婦関係はかわいそう。
「食事を作ってあげた」「私が養っている」ということを相手に言えば、言われた方は、「わたしはこれをしているのに」という思いが湧いて、言い合いになるもの。
自分では相手に与えているものは見えるが、相手から与えられていることは見えにくい。
聖書は「与えなさい、そうすれば与えられる」と教える。
相手が何かしてくれた、くれないに関係なく、自分から与えようとする人に、祝福が返ってくるという約束。
あなたは、自分のために何をしてくれるのか、という奴隷マインドになっていないだろうか。
あなたのために、今日私は何ができるか、と考えるものでありたいという、気づきが与えられた。