祈り 雑感メモ

祈りと生活の間で妥協が起こると、祈りは必ず行き詰ります。
祈りは生活がよって立つべき精神的支柱を決定するものでなければなりません。
しかし、これを逆転させていることが非常に多いのです。
日々の必要を並べ立て、買い物リストを読み上げるような祈りをしてしまっているのです。

 本来、祈りは時代精神と対決するはず。

 神が望んでおられるように生き、生活するために、祈りがある


 かつて哲学者ソクラテスは、『試練を通ることのない人生など生きるに値しない』と言いました。
苦しみがあるからこそ、私たちは神の前に自分を吟味することができるのです。否応なく窮境に陥り、試され、そこを通り抜けながら本物にされていくのです。自らの信念に基づいて生きる決断をするなら、戦いは避けられません。ですから、「我らを試みに会わせず」と祈るとき、わたしたちは逃げ道ではなく、誘惑に負けない強さを願い求めているのです。

教父オリゲネフスは、次のように問いかけています。
「悪魔とその軍勢が破壊されたのは真実であるのに、神の僕たちに対して悪魔がかくも強力だと、なお信じているのはどういうわけか」

 彼の答えは、悪魔の邪悪な活動は、神から遠く離れている人に向けられることが最も多い、というものでした。なぜなら悪魔の力はもはや、神に属している人には及ばないからです。これが真理であることは、祈りの力を見ればわかります。

 祈りは悪の力の侵入を受けてきた人々から悪霊を追い出すことができます。祈りはわたしたちを悪霊の働きから守ることができ、実際守るのです。祈りをもって聖書を読むとき、邪悪な力に対抗する大きな力が与えられます。パウロは悪から守られるため、『神の武具』を身につけるようにと語りました。『すべての祈りと願いを用いて、どんなときでも御霊によって祈りなさい』と呼びかけて、わたしたちを守る武具の描写を締めくくっています。
 しかし、自分の心を調べることを求められているのに、何でも悪魔的な力のせいにする傾向が私たちにはあります。私たちはますます神経症的になっていく社会に暮らしているため、ともするとキリスト者も自己耽溺にはまりやすく、やすやすと誘惑の餌食になってしまう可能性があります。祈りの生活はそうした問題を決して避けることなく、試みと誘惑に真正面から立ち向かいます

 戦いは、わたしたちが自分の内から出てくる悪に抵抗し始めるとき、本当に始まるのです。

 自分の内から出てくる悪にふたをするために、なんでも悪魔のせいにするのは、それこそ、悪魔にやられている、ということ。

本当の戦いは、自分の内からでてくる悪との戦い。

・暴飲暴食
・他の肉体をほしがる
・貪欲(もっと多くの金、楽しみ、名声・・)
・不満足(憂鬱、意気消沈)
・怒り
・落胆
・虚栄心
・プライド(人からあれこれ言われなくてもいいのだと思うこと。本質的にプライドとは自分のからに閉じこもること) 罪の中で最大の罪