野菜と神の国

shuichifujii2009-05-09

 日曜日の説教の準備を終わらせ、週報も作り終えると、ほっと一安心。
夕方、教会の庭のプランターに植えた小松菜を少し収穫して、お味噌汁の具に。


 今、小松菜のほかに、みず菜、じゃがいも、ナス、トマト、レタスなどを育てています。自分は野菜など育てるような人間じゃなかったのですが、この春、思い立って、始めてみました。


 蒔いた種が、やがて芽を出し大きくなり、最後には豊かに実を実らせ収穫の喜びに預からせていただける。


 状況がなかなか変わらず、いきずまりを感じやすい開拓伝道の現場において、日々、神様が野菜を通して見せてくれる命の力と収穫の喜びに、心が癒され励まされる思いがします。


 御言葉が人々の心に蒔かれて、それが芽をだし大きくなり、やがて豊かに実を結ぶには、長い年月がかかるものです。さらにその信仰が継承されて、よきものが次の世代へと引き継がれていく営みが繰り返されて、神の国は広がっていくことを考えるとき、教会の時間の計りは、5年10年という短い時間軸ではなく、世代を超えた100年200年という長いスパンで、神の業をみていくべきなのでしょう。


 だれしも人間は、自分の生きている間に、大きな変化を期待するものです。しかし、一方で、自分たちはこの酒田に、あと何年いることができるのだろうかと、思います。そもそもこの地上に、あと何年いきることが神様から許されているのでしょう。長くてもたった数十年でしょう。そしてたとえ、わたしたちがいつの日か、この場所からいなくなったとしても、ここに蒔かれた御言葉の種は、神の命が宿っているゆえに芽を出し大きくなり、この地に大きく育っていきつづけることは間違いないのです。


 野菜の成長をみていると、神様が、神の国の成長の姿を見させてくれているようでうれしくなります。100年かかる神の国の成長の姿を、数ヶ月に凝縮して見させていただいている気がするのです。




 自分に与えられた短い人生の時間のなかで、すべてが完成しなくても、完結しなくてもいい。何かを成し遂げなければと、あせらなくてもいい。壮大な神の国の働きのなかの、そのほんの一部分でも、この自分の人生を通して、担わせていただけたのなら、それはまことに感謝なことなのです。


 野菜の収穫を楽しみながら、そんなことを思う今日この頃。


マルコによる福音書4:26〜
「また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」


「更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」