絶望せず、怒らず

東浩紀さんが秋葉原の事件について朝日新聞に投稿した記事を読みました。



http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY200806120251.html

「逮捕後の調べのなかで、容疑者が職場への怒りや世間からの疎外感を長期的に募らせたうえで、計画的に凶行に及んだことが徐々に明らかになってきている。そこに窺(うかが)えるのは、未熟なオタク青年が「逆ギレ」を起こし刃物を振り回したといった単純な話ではなく、むしろ、社会全体に対する空恐ろしいまでの絶望と怒りである。不安定な雇用に悩んでいたという報道もある。 」

 容疑者に「社会全体に対する空恐ろしいまでの絶望と怒り」があった。ここに東さんは、問題意識を感じておられるようです。ゆえに、これは「絶望を映す身勝手なテロ」なのだと・・・


 この社会の抱える問題は大きく根深い。若い人の絶望は深く、怒りも大きい。
昨今は「希望は戦争」と語る若手論客さえ登場する。


 確かに、厳しい社会の現実の只中に置かれれば、この「絶望」と「怒り」を生み出した社会が悪い、と言いたくなる気持ちもわからなくはありません。


 しかし、一方、社会がどうあれ、自分は「絶望しない」という選択肢があるはずだと思うのです。


 社会のせい、親のせいでこうなったと「怒る」だけではなく、なお、その状況の中で、自分は「怒らない」ことを選ぶ自由が人間にはあるはずだと思うのです。


 自分の心を治める責任者は、社会でも、親でもなく、自分自身であるからです。


 聖書の中には、初期のクリスチャンの姿が記されています。彼らは当時の社会のなかで、迫害される立場でした。しかし、迫害してくる社会に対して「絶望」したり「怒ったり」、復讐したりするようなことはありませんでした。


 パウロという伝道者が、彼らに向けて書いた手紙の中に、こんな言葉があります。


「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、・・・・誰に対しても悪に悪を返さず・・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」新約聖書ローマの信徒への手紙12章9節以下抜粋)


 悪に悪をもって返さない自由な心。やられてもやり返さないでいられる自由な心。どんな境遇にあっても、絶望せず前向きに、怒ることなく、平安でいられる自由な心。


 その自由な心を彼らは持っていたのです。その生き方をみて、沢山の人々がクリスチャンになり、やがて、4世紀には、当時のローマ帝国キリスト教国となりました。


 信仰によって、この「絶望しない」「怒らない」でいられる心の自由を持たせていただきたいと願います。そこから、何かが変わっていくことを期待して。


「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」旧約聖書 箴言16章32節 口語訳)