キリストと公益

shuichifujii2007-05-25


 イエスさまがなさったことを、今の時代に行うのが教会ということですけれども、
「イエスガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」マタイ4章23節

と聖書にありますので、福音を宣べ伝える「伝道」、御言葉を教える「教育」、そしてわずらいをいやすという「奉仕」という働きをバランス良くしていきたいところです。でもなかなか難しいところがありますね。


 聖書の福音を伝えるために、チラシを配り、教会で御言葉を教える。

 でも、「奉仕」の側面について、まだ弱いことを自覚しています。楽器がもうちょっとまともになったら、音楽仲間をつくって、老人施設などの慰問ができたらと、小さな幻はあるのですが・・。


 先日、酒田総合文化センターの会議室を、読書会の名目で借りたのですけれども、ここの施設は、教会の名前で部屋を借りるのが本当に難しいのです。教会で使うというと、勧誘活動をするのではないかとすぐイメージされて、そうではないと説得するのに時間がかかりました。

「どうぞ教会さん、どんどん使ってください」と教会を好きになって頂けるように、教会主催の教育文化的活動もひつようなのかもしれません。とはいっても、「好きになってもらうためには、まず酒田のことを好きになること」ということからすると、逆に、酒田について、教会が学ぶ会というものをそこでするのもよいのかもしれません。


 さて、酒田の湊町、商人の町としての歴史伝統の背後に、「公益」という思想があります。「公益」とは、ごく簡単に言えば、他者の利益のために生きることが本当の意味で自分の利益となるという思想かと思います。本間光丘(みつおか)という、神社に祭られるほど酒田の人々に尊敬された人が、その昔、私財をはたいて、防風林の植林事業を行い、酒田を救ったことから、酒田における「公益」の思想は端を発しています。最近には、公益文化大学という、「公益学」という新しい学問を学ぶ大学まで酒田の人々は造っています。酒田に「公益」の思想ありです。


 去年、庄内銀行の代表取締役頭取の、町田睿さんという方が、公益文化大学に呼ばれてスピーチしたなかに、こんな言葉がありました。


「・・私は世の中で一番値打ちの高いものは何かというと、自分にとって一番大事な命を、自分のためではなくて、自分以外のものや人のために役立てる、犠牲にする。私はこれが一番値打ちがあるのではないかと、最近本当にそう思えるようになりました。キリスト教のキリストは十字架に架けられましたが、それはキリストが自らの罪をあがなうのではなくて、人類が犯した罪をあがなうためだといっておりますし、仏教では自分の身を虎の餌にするというのも、同じ精神であろうかと思います・・・」


 キリストの十字架の犠牲は、まさに「公益」の本質だと、荘内銀行のトップの方が学生に語っておられたのでした。


 キリストを信じる教会こそ、「公益」の本質を生きることができるのですね。