受け手主権の原理

 今日はまた暑さが戻ってきました。でも、クーラーをつけなくても窓を開ければ風が入ってきて過ごしやすいです。昨日は結局温泉に行けませんでした。残念。今日は双葉幼稚園を見学し、説教の準備をしました。求道者の方に電話をかけ、日曜日の13:30からの礼拝にお誘いしました。

 そのうちに準備が整いましたら、近隣にチラシをまこうと思います。内容は「教会にきて下さい」的な内容ではなく、証やメッセージののった「機関紙」のようなものにします。理念は以下の通りです。

・イエス様の伝道は、いわゆる勧誘とは違う。大道芸人と一緒。聞くものは聞けばいいという方式だった
・あくまで主権は受け手にあった。イエス様は聞く人々、いわゆる受け手の主権を大切にされた。
・真剣に真理を求める人だけではなく、「ちょっと聞いてみよう」と足を止める人も含めて、イエス様は語られた。
・未信者の人が教会に行くという決断をするのは、それはもう「ちょっと聞いてみよう」というレベルではない。かなり覚悟を決めてから教会にくる。ゆえに、一〜二回チラシを蒔いたくらいで教会にくることを期待するのは酷。
・「教会には行かないが、話はちょっと聞いてみようか」という人々に、どうすれば「継続的」に御言葉をとどけることができるか。
・チラシの内容が教会案内だけでは、「ちょっと聞いてみようか」という人に「継続的」に御言葉は届かない。
・ゆえに、証やメッセージをのせる機関紙が良い。「ちょっと聞いてみようか」という人に「継続的」に御言葉が届く。
・機関紙に、ホームページの案内を書く。機関紙の内容に興味を持った人はホームページも見る。そこで「継続的」に御言葉にふれる。
・チラシもホームページも、自分の意思で見たい人が見るもの。ゆえに「受け手主権」の伝道ツール。イエス様と同じ伝道理念
・興味のない人は見ない。それでいいと割り切る事が大事。「聞く耳のあるものは聞けばいい」のがイエス様の伝道。受け手主権の原理。
・教会に誘うのが伝道の目的ではなく、御言葉を「継続的」に伝えること。人は教会に行きたくなったら自分の意思でやってくる。
・ゆえに、「教会に来た」ということを方策の評価としない。それをすると、どんな方策もネガティブな評価になるから。そして「どうせやっても無駄だ」ということになって、伝道そのものが悲観的になってしまう。
・どれだけ御言葉の種が蒔かれたか。人々のキリスト教への偏見が取り除かれ、心の畑が耕かされたか。そこまでが人間に出来ること。蒔かれた種を成長させて、人々を救うのは、主のなさること。それを信じるのが信仰
・この、受け手主権の原理に立った伝道は、楽しい。

働きのために、お祈りいただけましたら幸いです。