「御心を聞き取らねばならない」

shuichifujii2006-01-26

昨日の祈祷会のメッセージ

昼間の水曜礼拝では、妻が証して、涙、涙でした。

夫は夜の祈祷会でお話。

いつものごとく、イスラエルの歴史から学んでいます。

「御心を聞き取らねばならない」
列王記下23章36節〜24章7節


 去年の7月から、イスラエルの歴史を学んできました。士師記からはじまり、サムエル記、列王記と、数多くの王様を取り上げて学んで参りました。実際、なかなかこういう機会でもなければ、じっくり読むことはないところかも知れません。そして、つい、読み過ごしてしまうような、マイナーな王様も、何人もおりましたけれども、しかし実は、そんなマイナーな王様のあり方からも、わたしたちにとって大切なことを学ぶことが出来ると思うわけであります。今日取り上げる、このヨヤキムという王様も、そんな王様の一人だと思っています。

 今まで、南ユダ王国の王様を順に学んできまして、いよいよ、南ユダの、バビロン捕囚も目の前に迫ってきました。今日の、このヨヤキム王は、その捕囚のほんの手前に現われた王であります。

 彼のお父さんは、ヨシア王でありました。ヨシア王につきましては、前回学びました。彼は、神殿で律法の書を見つけ、イスラエル宗教改革を行った、非常に信仰的な王でありました。ところが、そのヨシアのお父さんがマナセ王という、史上最悪の王で、エルサレムを偶像でいっぱいした王でありまして、そしてそのまたお父さんの、ヒゼキヤ王は、今度は、大変信仰的な王様だった、というように、この南ユダ王国の歴史は、最後に至って、非常に左右に大きくぶれながら、喩えるなら、螺旋(ラセン)階段をぐるぐる降りるように、良くなったり悪くなったりしながら、しかし確実に、バビロン捕囚へと落ちこんでいくという、そんな歩みでありました。

 今日のこのヨアキム王は、最後から三人目の王様ですが、彼の特徴としては、彼は、エジプトによって立てられた王様であったということであります。それは、23章33節以下を読むとわかります。

 この時代、南の大国エジプトが、北上してきたわけであります。なぜかというと、北の大国アッシリアが、新しい国バビロンに責められ弱ってきた。そのバビロンをおそれたのがエジプトであって、アッシリアを助けようと、エジプトは、北上してきて、南ユダにもやってきたということであります。

 その北上してきたエジプト軍と闘って、ヨヤキム王のお父さん、ヨシア王は戦死します。

 そして、ヨシア王の4男、ヨアハズが即位しますが、エジプトによって幽閉される。そしてその代わりにエジプトが立てたのが、このヨヤキム王であるわけです。いわばエジプトの傀儡政権が誕生したと、いえると思います。

 なので、エジプトに貢ぎ物をしなければならない。そうして、国に税金を課すようになったとあります。そうやって、ここでいったん南ユダは、エジプトの属国のようになります。

 ところが、ヨヤキムが王の時代に、バビロンが攻め上ってきたと24章にあります。これを第一回バビロン捕囚と言いまして、攻めてきたバビロンは、人質と財宝を奪っていきました。この時の人質の中に、あのダニエルがいたのですね。ダニエル書の一番最初に、記されてます。

 第一回目のバビロン捕囚の憂き目にあって、南ユダは、バビロンに3年の間だ、隷属します。ところが、24章の1節にありますように、ヨヤキム王は、三年後に、バビロンに反逆したと記されています。注解書によると、おそらく、彼は、エジプトを頼りにして、ここで反逆したのであろうといわれます。彼はエジプトによって立てられた王でありますから、エジプトを頼りにしたのでありましょう。

 大切なポイントは、彼が、この反逆を、神の御心を求めたうえで行ったのではないと言うことにあります。その意味において、この反逆は致命的なミスと言えます。

 なぜなら、結局、その反逆は、カルデア人、アラム人、モアブ人、アンモン人というバビロンの支配下の各部隊によって鎮圧されるからであります。そして重要なことは、この各部隊はバビロンではなく、主が遣わしたのだと、記されていることであります。

24:2 主は彼に対してカルデア人の部隊、アラム人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊を遣わされた。主はその僕である預言者たちによってお告げになった主の言葉のとおり、ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた。

 主の御心は、すでに南ユダを裁くことにあった。そして、そのためには、異邦人をさえ用いられたのだということであります。そのことをヨヤキム王は悟ることが出来ずに、反逆したということでありました。

 神様がイスラエルを裁くために異邦人さえも用いられるということがある。 
 それと似たことは、イエスさまが十字架についた40年後に、エルサレムが、ローマ帝国によって滅ぼされていったことも、またそうだといえるのだと思います。

 イエスさまの時代のユダヤ人は、そのことがわかっていなかったわけですね。だから、自分たちは正しい。神を信じているのだ。その正しい自分たち神の民を圧迫しているローマは悪だ。だから、ローマに反逆しなければならない。そうやって政治的指導者を求めて、イエスさまを十字架に付けてしまうという、致命的な罪を犯したわけでありました。

 ゆえに、常に大切なのは、神の視点で物事を見るということであります。ヨヤキム王は、目に見える状況で判断した。バビロンをみて、エジプトをみて、そういう軍事的、政治的状況判断のみで行動した。しかし、主の御心は違ったのであります。主は、敵さえも用いて、南ユダの歩みをただそうとしていた。その神の御心をこのヨヤキムがもし知っていたなら、彼は、バビロンに反逆などせず、その場にひれ伏して、悔い改めて、主に立ち返ったのではないかと、思います。

 神の御旨を求める心。それがこのヨヤキムには決定的に欠けておりました。

 このヨヤキムの時代に活躍した預言者は、エレミヤであります。

 エレミヤ書を見ますと、預言者エレミヤは、このヨヤキム王に主の言葉を伝えつづけていたことがわかります。

エレミヤ36章1節〜3節

36:1 ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。
36:2 「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。
36:3 ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」

3節にありますように、神さまは、南ユダをまだあきらめていなかったのでありました。もう、滅ぼしてしまおう、捕囚にしてしまおうと、決め手はおられなかった。まだ、彼らは立ち返るかもしれない。そのように、神さまは忍耐をもって待ってくださっていたわけであります。そして、立ち返るなら、その罪と咎をゆるそうと、そのように思っていてくださった。

その神のご愛に、このヨヤキムという王は、どう答えたのでしょうか?

22節〜
36:22 王は宮殿の冬の家にいた。時は九月で暖炉の火は王の前で赤々と燃えていた。
36:23 ユディが三、四欄読み終わるごとに、王は巻物をナイフで切り裂いて暖炉の火にくべ、ついに、巻物をすべて燃やしてしまった。
36:24 このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。

 神の言葉を聞きながら、誰一人として恐れを抱かなかった。衣服を裂く、悔い改めるということをしなかったのでありました。そして、その高慢が、彼と南ユダの悲惨な運命を決定的にしてしまったわけでありました。

 聖書が常に教えているのは、どんな政治状況にあっても、目に見えることで判断するのではなく、神の御心に聞くということであります。どんなに合理的にみえても、有利にみえても、神の民は、自分ではなく神の御心を尋ね求めて生きるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのであります。ヨヤキム王は、目に見える状況だけで判断し、神の言葉を恐れることをしませんでした。

 そして、わたしたちも、もし、目に見える状況や、数字だけで、なにか事を起こして、神の御心を熱心に祈り求めようとしないのなら、このヨヤキム王のことを笑えないかもしれません。

 神さまは、バビロンさえを用いて、イスラエルを導かれたように、現代の教会を導くためにも、良いことばかりではなく、否定的なものを、用いられるということがあるのだと思います。それは、失敗であるとか、痛みであるとか、いさかいであるとか、そのような否定的なことかもしれません。しかし、そのようなものをさえ、神さまは用いて、教会に語りかけられる、目を覚まさせられる、神の御心へと導かれることがあるのだろうと思います。

 ですから、そういう否定的な出来事が起こったときに、ヨヤキム王のように、目に見える状況だけで判断し、安易に行動した、ヨヤキム王のようであってはならないのでありましょう。そうではなく、そんなネガティブな出来事が起こってきたときにこそ、そこに、神さまのご意志を聞き取っていく霊的な耳が求められていると思います。立ち止まり、へりくだり、高ぶりを悔い改めて、耳を澄まして、神の御心を尋ね求めていきたい。

 イスラエルの歴史を学ぶということは、表面上は、滅びへと向かっていく民族の歴史を学ぶということであります。だから非常に心が重くなります。しかし、実に、このネガティブな出来事の数々のなかに、神さまの御心が示されている。イスラエルを導き続けようとされた神さまの御旨が示されている。そこを読みとることで、現代の私たちの教会の歩みも、正されていきたい。まっすぐなものとされていきたいと、そう願うからこそ、こうして、イスラエルの歴史を学ぶわけであります。

 歴史ということなら、この常盤台教会の歴史もまた、神の民の歴史であります。であるならば、歴史には光もあれば闇もある。そして、実に歴史の光の部分よりも、陰の部分にこそ、人には、隠しておきたいようなところにおいてこそ、神さまは、雄弁にわたしたちに語っておられるのではないでしょうか。そんな神さまの語りかけを聞き、主の御心に従って歩んでいく、わたしたちの歩みでありたいと、そう切に願うのです。


お祈り致しましょう。