キリストの復活を信じる「信仰」

 あるメルマガで知りましたが、『ダ・ヴィンチ・コード』という、ダン・ブラウンという作家が書いたミステリー小説が、全米で650万部を売り上げているそうですね。日本語訳も出ていますけれども、2006年にはトム・ハンクスが主演で映画化も決定しているそうで、映画化されれば日本にも上陸するでしょうね。物語の内容は、ルーブル美術館で起きた殺人事件がきっかけとなり、キリストの時代以来、ある秘密結社により守られてきた極秘事項が暴かれるというものだそうで、その秘密とは、キリストは死んではいなかったし、復活をしたわけでもなく、マグダラのマリアと結婚したという、そういうお話のようです。こういう「実はキリストは復活しなかった」というお話は初代教会の時代から、グノーシス主義を始めとして、手を変え品を変えては現れ消えていきましたけれども、これもその亜流でしょうか。
 さて、そもそも復活というものは論証するような事柄ではなく、「信仰」の事柄です。聖書に記されている、復活のキリストを目撃した人々の証言を、本当だと信じるのも「信仰」、嘘だと信じるのも「信仰」なのです。そして教会とは、キリストの復活証言を本当だと信じる「信仰」を頂いた人々による、罪の赦しと永遠の命の希望に生きる共同体なのです。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(1コリント15:17〜20)