私がバプテスマを受けるまでの話

青年会の会誌に書くように言われたので、書きました。ついでにここにも載せちゃおう。

信仰告白までの導き」
藤井秀一

 最初に聖書と出会ったのはいつなのだろう。40歳を前に、子どもの頃のことがなかなか思い出せなくなった。ああ、そういえば、私が中学生の時、二つ年下の妹がなにか楽しそうな所に行き、挿絵のついている聖書をもって帰ってきたことがあった。あれはきっと友達に誘われて教会学校に行ったんだろう。でも、当時の私は、聖書は何の興味もなく、今後も読むことはない書物と思いこんでいた。
 時は流れ、就職して2年たったある夜。寮生活をしていた私のところに母から電話がきた。今、家から飛び出して友人の家にいるという。会いに行くと、父に殴られ醜く顔が腫れ上がった母がいた。母はもう家には戻らないという。それからしばらくの間、長男であった私は、父と母の間に板挟みになり、聞きたくない言葉の数々を聞くはめになった。そして二人は別れた。
 こんなことをつらつらと書くのは恥ずかしい限りだが、しかし、この出来事は私にとって決定的なターニングポイントゆえに書かないわけにはいかない。それまで、男女の愛とかいわゆるヒューマニズムの愛に期待し、何の根拠もないまま自分の人生に淡い期待をもって生きていた私にとって、家族崩壊の現実は、その期待を放棄させるに十分な出来事であった。
 さてそれをきっかけに、心にぽっかり穴が開いたような状態になる。なにをしても、その心の穴からみんな外に流れでてしまうような感覚。むなしさとはこういうものなのかと思い知った。そんなある日、三浦綾子姉のエッセーに出会う。クリスチャンの三浦夫妻の他愛ない日常の証を通して、冷え切った心の中になにか暖かいものが流れ込む感覚を覚えた。当時は旅先の本屋で偶然手にしたと思っていたが、今では神様の導きに違いないと思っている。その体験以来、「涸れた谷に鹿が水を求めるよう」(詩編41編)に、三浦さんの言葉をあさり、そして聖書の言葉をむさぼるようになった。そして聖書の御言葉は、私が予想もしなかった、私自身の罪を鋭く指摘し始めたのである。当時職場にどうしても受け入れられない同僚がいた。しかもいつも自分の隣に座り、いやでも一緒に仕事をしなければならない人であった。もう、何ヶ月も挨拶一つせず、必要最小限の会話しかない。彼と顔を合わせるのは憂鬱だった。彼がいなければいいのにと思っていた。彼のあら探しをしては心の中で責めていた。しかしそんな私を、今度は御言葉が責め始めたのだ。キリストは言う「自分を愛するように隣人を愛しなさい」。嗚呼、なんという言葉だろうか。心が痛んだ。しかし、聖書から離れることはもはやできなかった。心が聖書を読むことをどうしても欲するのである。ゆえに、日々罪を示されつづけ十字架の意味がいやと言うほど分かってきた。もうキリストしかこんな私を救えないと、本気で思うようになった。友人と酒を飲み、酔いが回って人生を語り出すころになると、教会にも行っていないくせに、キリストのことを熱弁するおかしな人間になっていた。それでも、教会にいく気はなかった。自分さえ信じていればいいと思っていたからだ。でもその考えは甘かった。私は、時折襲ってくるむなしい心に抗しきれず、すぐ罪の喜びの中に逃げ込んでしまう人間なのだ。ある時、あの手痛いしっぺ返しをくらった。もう自分は教会にいかなければだめになると観念した。1991年の冬のことである。その半年後に行われた特伝の時、ザアカイの話を聞いた。もういい加減、木から下りてきていいよ、といわれた気がして、アンケート用紙の「キリストを救い主と信じます」というところに丸をしてみた。そしてあれよあれよという間に、信仰告白バプテスマとあいなった。
そして心底思った。「やっと帰ってこれたんだな。神様ただいま!」

主に栄光がありますように。