「外からの言葉」

 宗教改革者たちは聖書の御言葉を「外からの言葉」と表現しました。「外からの言葉」とは文字通り自分の外からやってくる言葉のことです。自分で自分に語ることのできない言葉ともいえるでしょう。そしてこの「外からの言葉」は私たちにとってとても大切であり、生きるために必要な言葉です。「あなたのことが好きだ」と言われなければ、生きられないのと同じです。そして教会は、自分で自分に語ることのできる言葉ではなく、この「外からの言葉」に関わっていく群れです。永遠なる神からの言葉。生きるも死ぬも、すべての人が寄り頼むべきこの「外からの言葉」に、私たちは互いに関わっていきます。ですから、神の家族の交わり、互いの会話による慰め、相互牧会とは、心理学的なテクニックやカウンセリング技術によるのではなく、この自分自身では語ることのできない「外からの言葉」を、互いに聴くところにおいて真の実を結ぶことを覚えたいと思います。
 ドイツの神学者ボーレンは、15年間鬱病で苦しんだ妻が自死し、自分もまた重い心に悩み抜きました。そして、この一人のキリスト者、神学教授は、やがて聖書の言葉を暗唱し、信仰問答の章句を覚え始め、そのことによって慰められていきます。なぜ神学教授が、いまさら教会学校の子どもたちのするように御言葉を暗記しようとしたのでしょうか。それは聖書の御言葉が、自分の内部からではなく、「外から」与えられる言葉だからであります。自分の中からは出てこないその言葉に集中して聞き、心に刻みつけ、そこに繰り返し立ち返る行為が、暗唱、暗記でした。そして、その「外側からの言葉」だけが、深い悩みにある彼を慰めたのでした。
 神の家族の歩みが、この「外からの言葉」による真の慰めを人々に証していく歩みでありますようにと、祈り願っています。