継続は力なり

 小説などを読む時に体験するのは、最初は登場人物や設定を記憶しなければならないので、ゆっくりにしか読み進めらないが、後半になるほどに、読むスピードが速くなるということ。

 情報が頭に入ればはいるほど、本ははやく理解できるようになる。逆を言えば、本の読み始めのときは、読んでいるようでも良く理解できていなかったり読めていないので、もう一度読み返すと、「ああ、こういうことをいっていたのか」と改めて気がついたりする。

 つまり、本を読むという行為にも、前提となる情報が必要であり、それは多ければ多いほど、本を理解する早さや深さが増す、ということ。

それは、聖書のメッセージにも言えるとおもう。教会にきてまもない人は、牧師が話している聖書の話がチンプンカンプンであるのは、ある意味仕方がない。聖書は約2000年以上昔のイスラエル民族の記した古典であり、登場人物の名前や、当時の文化についての情報がなければ、チンプンカンプンなのは仕方がないこと。

しかし、だからといってそこで諦めないで、何度も聞き続けているうちに、情報が頭にインプットされて、メッセージの内容が理解できるようになるのだ。

牧師の立場から言うなら、いくらわかりやすく聖書のメッセージを語ろうと思っても、相手の方に、ある程度の聖書の情報、知識を得ていただかなければ、伝わらないという現実は、どうしようもないことも事実。

だから「今は分からなくても、きっと分かるようになりますから」と、とにかく何度でも、礼拝に足を運んで、聴き続けていただくようにすることが肝要なことなのだと思う、今日この頃。