「平和の目薬」

shuichifujii2015-08-24

8月23日 花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ
ルカによる福音書6章39節〜42節

39
エスはまた、たとえを話された。
「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
40
弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
41
あなたは、兄弟の目にあるおか屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
42
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、「さあ、あなたの目にあるおか屑を取らせてください」と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。<<


 金曜日、土曜日は、全国壮年大会に行ってきました。250人ほど、全国の壮年、女性も少しおられましたけれども、まあ、クリスチャンのおじさんたちがたくさん集まると、壮観ですね。


 北海道から九州まで、個性的なおじさんたちが、一堂に会して低い声で、賛美歌を歌う。隣の人が、何の仕事をしているのか、知る由もないし、名刺交換などしませんから。何の肩書も外した、生身のおじさんたちが、一緒に大きな声で、歌を歌う集団。よく考えたら、こういう不思議な集まりは、教会以外に、なかなかないんじゃないですか。

 もしかしたら、教会以外のところで出会っていたなら、一緒にはいられない関係だったかもしれない。仕事上のライバルとか、敵という関係さえあるかもしれない。でも、教会というところは、そんな一人ひとりが一緒にいて、心を通わせる現場なんですね。

 それはもう、肩書などを脱ぎ捨てた、生身の1人の人として、目の前の人の中に、神の作品としての素晴らしさを、価値を、
見る目が開かれているからじゃないですか。

この、目の前の人を、まっすぐにみる心の目が、今も、ちゃんと開かれていますか、

という問いかけが、今日のイエスさまの言葉ではないですか。

41節
「あなたは、兄弟の目の中にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」

これは、他人のことはよく見える。人の小さな問題、罪はよく見えるのに、自分の問題、罪は見えていない。

人のことをとやかく言う前に、まず、自分の中にある問題に、罪に、気づいて、取り除きなさいという、そういうことを、まずはイエスさまは言われているのだろうと、思います。

でも、それでは、ここで「丸太」と表現されている、自分の問題とは、罪とは、いったい何なのか、ということなんです。

なにか、あの人よりも自分の方が、もっと陰で悪いことをしているとか、心の中で、悪ことを考えているとか、そういうことですか。

この「丸太」とは具体的には、何なのでしょう。

週報の巻頭言に書きましたが、

あの第二次世界大戦の時、ドイツにおいて、ナチスの犯した罪を、私達は良く知っていますね。ユダヤ人を何百万人も虐殺したことは、忘れるわけにはいかないわけです。

でも、戦後に、そのナチスの血を引く子ども達が、欧州で差別されたのだ、ということを、ある牧師の説教を通して知って、考え込んでしまいました。

ノルウェーで、ナチスの兵士の血を引く子ども達が、正しい検査もせずに「知的障害者」というレッテルを貼られたり、「敵の落とし子、ドイツの子」と呼ばれ、ふさわしい仕事に就くこともできなかった時期があったのだそうです。

罪を犯した親の子だから、これは当然の報いでしょうか。
自分たちを苦しめた奴らの子どもなど、どうせ、ろくな人間にはならないということでしょうか。

そういう「偏見」によって、目の前の子どもを、まっすぐにみれなくなってしまう悲しさ。
神に愛され命与えられた、尊い子どもたちであることが、見えなくなって、滅ぼさずにおれなくなるとしたら、
それは、ナチスがしたことと、同じことではないでしょうか。

「あなたの、目の中に丸太があることに気づきなさい」と主イエスはいわれます。その「丸太」とは、目の前の人の素晴らしさを見えなくさせるものではないでしょうか。ただ「あなたの目にはおが屑がある」と言い続け、それじゃだめだ。そんなあなたじゃだめだと、その人を滅ぼしていく、心の目の曇り、偏見。そんな丸太が、きっとどんな人の目の中にも、あるはずなんです。ただ気がついていないだけで。

 うちのこどもたちが兄弟喧嘩をする時も、かたっぽの子が、親からほめられたりすると、もうかたっぽの子の顔色が変わったり、嫌味を言ったり、そんなことがおこる。誉められてよかったねと、一緒に喜ぶなんてことは、難しいものです。

こどもたちの名誉のためにいっておくなら、それはみんな同じだということです。だれもが愛されたい。親に愛されたいと思いながら、あの子は愛されて、自分は愛されていないんじゃないかという、不安を感じながら、一緒に喜ぶことなど出来るわけがないのだから。

愛されていないんじゃないかという不安、恐れが、わたしたちの目の中の丸太を大きくし、人のよいところは見えなくなり、むしろ、小さな「おがくず」を見つけては、批判し、責めて、自分には価値があるのだと、自分を必死に守っているのではないですか。

このイエスさまの言葉は、弟子たちに語られた出来事として、ルカの福音書は書いています。
エスさまの弟子たち、そして神の愛を知っている教会の人々に向けて、

「盲人が盲人の道案内をすることができますか」と言われているのです。
心の目は見えていますか。神に愛されていることを忘れて、不安や妬みで、目の中の丸太が大きくなっていませんか。
それでは、福音の道案内は難しい。

だから、丸太を取り除きなさい。そうすれば、目の前の人の素晴らしさが、はっきり見えるようになって、おがくずも取って上げられる。その人を滅ぼすことなく、活き活きと、生かして上げられる関わりが出来るようになる。

そのために、目の中の丸太を、神さま、どうか取り除いてくださいと、祈り求めたい。

今日の説教の題は、「平和の目薬」としたのです。きょっと変わった題にして、道行く人の目を引きたいという気持ちもあるのですけれど、もうひとつは、黙示録に「見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」という言葉があるからなんですね。

黙示録の3章14節からの言葉ですけれども、当時のラオディキアという地方にあった教会には、すこし問題があった。でも、そういう自分の状態がよくわかっていない、見えていない。そんな教会に向けて、「見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」と書かれている言葉です。

その目薬とは、いったい何なのかと、思いますけれども、その続きを読むと、

「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」そう書かれているのです。


神さまは、愛しているからこそ、叱ったり、鍛えたりなさるのならば、

今の、目の前のつらい現実、愛されていないように感じる状況、失敗、試練、病気、死さえも

すべては、神さまの愛のなかにあるのだと、神の愛を信じることが、心の目を大きく開いてくれる目薬なのではないですか。

自分の願いどおりにならないたびに、愛されていないと、不安になって、目の中の丸太を大きくしなくていい。

愛されているのだから。その目の中の丸太を抱えたそのままで、赦され、生かされているのだから。

神の愛の目薬こそ、わたしたちの心の目から、丸太を取り除いてくださいます。

自分が、変わることのない神の愛で愛されていることが分かって初めて、

人のことを、妬むことなく、まっすぐに、その素晴らしさを、ちゃんと見ることが出来るのだから。

そうなって初めて、その人の素晴らしさをちゃんと見ることが出来るようになってはじめて、

その人の中にある、小さなおが屑に、働きかけて、その人を本当の意味で、生かすことが出来る人となれるでしょう。

その人を妬む動機でも、自分の満足のために利用する思いからでもなく、

その人を活かす関わりへと、一歩踏み出すことが出来る。

水曜日のお昼の祈祷会では、ヘンリーナウエンの図書を読んでいるのですけど、先週の祈祷会で読んだ箇所に、こんなことが書いてあって、皆さんで少し話題になったのです。

そこには、こんなことが書いてありました。

「子どもを受けれいる」とは、何を意味しているでしょうか。それは、この世からほとんど無視される人々に愛情のこもった関心を払うことです。・・・・
昨日、物乞いの人から呼び止められました。少しの食物を買う小銭が欲しいというのです。

何も期待していなかったのか、わたしが10ドル札を差し出すと、飛び上がってこう言いました。

「ありがとうございます。ありがとうございます。本当に、本当に」
思いもしなかった金額に、大変驚いていました。

わたしは突然、深い悲しみに襲われました。その時のわたしは、欠かしたくない集まりに行く途中でした。私がした贈り物は、先を急ぐための口実でした。関わりたくなかったのです。自分がケチでないことを感じたかっただけです。わたしのこの「気前良さ」は、「幼い子ども」を歓迎したくない、根深い抵抗があることを、示しています。


このヘンリナウエンの、正直な告白の言葉を読んで、祈祷会に集まった方々が、様々な感想を話しあったわけですけれども、何人かの方は、このナウエンの言葉にショックだったのか、「そこまで考えたら、人に対して、何にもよいことが出来なくなりそう」とか、「自分がしたことが、後から、あれは良かったのかのかなと、いちいち考えるのは、疲れそう」というような、言葉も出たのですね。


みなさんは、どうおもいますか。

物乞いの人は、お金に困っているのだから、まずは、お金をあげることも、時には、必要なんじゃないか。そんなに、自分がしたことを、責めなくてもいいんじゃないか。考え過ぎなんじゃないか。

そう思いますか。

何がその人の問題なのか。自分は、その人の問題のために、何をしてあげることが出来るのか。なにが、その人を活かすことになるのか・・・

そのことを考えて、今、自分に、できることをしてあげたら、それで、いいんじゃないか。なにも自分のしたことを、責めなくても・・・・

そういうことでしょうか。考え過ぎということでしょうか。

なぜ、ナウエンは、突然、深い悲しみに襲われたのでしょう。

それは、その時、彼の目をふさいでいた、「丸太」を神さまが取り除いてくださり、今、10ドルをあげた、その人が、どれほど神さまに愛された、価値ある人なのか、そのことに気づいたから。見えるようになったからではないですか。

大切な会議より、ましてやたった10ドルよりも、はるかに尊い、目の前の人の価値が、何にも見えていなかった。そのことを悲しんだのではないですか。

ただ、その人の問題、「おが屑」しかみようとしなかった。「おが屑」であるところの、お金の問題しか、見えていなかった。

尊く、神にこの上もなく愛されている人として、今、目の前の、そのホームレスの人を、見る目が「丸太」でふさがっていたことに気づいた、悲しみだったのだから。


 何がその人の問題なのか。何をしてあげたら、その人の問題の助けになるのか、その人の「おが屑」をどうやって取ってあげようか。

そのように、人を見て、人にかかわろうとする、わたしたちに、イエスさまはこう言われるのではないでしょうか。

「自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、「さあ、あなたの目にあるおか屑を取らせてください」と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

と。

今、目の前のその人の、神に愛されているその人の、神の作品として生かされているその人の、

たとえ病気でも、弱くても、ハンディがあっても、仕事がなくても、失敗ばかりしてきたとしても、

その人は神に愛され、神に生かされている、かけがえのない人であることが見えないまま、丸太があるまま、あなたの「おが屑」を、わたしは取ることができるのです。助けさせてください。取りたいんです、あなたの「おが屑を」という、偽善者にならないように。

エスさまは、言われます。

「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

主が、わたしたちの目の中から、丸太を取り除いてくださいますように。

互いに、神に愛されている尊い命であることが見えるように、

平和に、共に生きていくことが出来るように

神の愛という目薬を、主に祈りもとめたいのです。


祈りましょう。