ルカによる福音書6章20節〜26節
「神の祝福」
こう、毎日暑い日が続くと、こうして今日もこの場で顔をあわせられたことの、有難さといいますか、クーラーのありがたさ、といいますか、
きっと、この礼拝の1時間のために、何日も前から体調を整えて、やっとの思いで、この場に来られた方もきっとおられると思うのですね。
それでも、どうしても体調が悪いので、今日は教会に行かれませんと、電話を下さる方の思いを思うと、この一時間。一緒に神さまを賛美したかったという、心の思いを感じて、主がそばにいてくださいますようにと、祈らされます。
山形の酒田で開拓伝道をしていた時、わたしは一度インフルエンザで、礼拝に出られない時がありました。
説教の原稿は出来ていたので、妻に託して寝ていたんです。開拓伝道の現場ですから、いつもは、わたしの家族と、あともうひと家族が来てくださっていたんですけど、その日は、そのもう一家族も用事で礼拝に来れなくて、だれか初めての方がこられるかなと、祈りながら、妻と子どもたちだけが、礼拝場所にいったんです。
わたしは布団の中でうんうん唸っていて、お昼ごろ、礼拝堂から妻と子どもたちが帰ってきたんですね。なんだか楽しそうな話し声が聞こえてきたから、ああ、誰か来てくれたのかな、よかったなと、思って、妻に聞てみたら、妻は嬉しそうに、「いい礼拝だったよう。だれもこなかったけど、こどもたちと賛美歌を歌って、とってもよかった。いつも礼拝の時ちょろちょろしてる勇希も、ちゃんと一緒に歌ったし、あ、説教は結局、嗣音が原稿を読んでくれたよ。彼は、自分が説教した気になってるよ」
そうやって満ち足りた顔をしているのを見て、「ああ、誰も来なかったら、さびしいだろうな」と心配などする必要なかった。
イエスさまがちゃんといてくださったじゃないかって、つくづく思ったことがありました。
それは、今、この礼拝も同じです。毎週、わたしたちは同じことを、ただ繰り返しているようで、決してそうではありません。
限りあるこの地上に生きていながら、限りない天を思う。主イエスを通して、天に祈る。そんな天と地の触れあう、二度とないこの日の礼拝を、巻き戻すことの出来ない、永遠の中の今、この時を、共に過ごしています。
日々、何気なく生きてしまい、気がついたら、つい自分のこと、自分の思い、自分の考えで、頭がいっぱいになってしまうわたしたち。
「自分」の思い通りにならない仕事、「自分」の願いどおりにならない、あの人、この人、そんな状況に、イライラしがちな日々。
それは、あの人この人のせい、のようだけど、結局は、こうありたい、こうあってほしい、という自分の思い、自分の考えに、こころが縛られているわけだから。
だから、どうしても、ここに集って、自分の思い、自分の願い、自分の思い煩いから、解き放たれて、
わたしたちを愛してやまない、神の思いに、こころ向き直すために、悔い改めるため、ここにこうして集まらずにはいられない。
神の言。主イエスの言葉、神の祝福の言葉を、聞かなければ、本当のいのちを、いきいきと生きられないことを、知っているから。
神の祝福。それは、この「自分」の思う通り。この「自分」の願いどおりになるようにと、そういう祝福ではなくて、
それはむしろ、自分が神になりたい、神になれるという、悪魔の誘惑、悪魔のささやき。
そんなものが、神の祝福ではなく、むしろ、「わたし」の思い、「わたし」の願いではなく、あなたの御心が、私たちの上に、実現しますように。それが、神の祝福であることを、
あのイエスさまをお腹に宿した母マリアが、「おめでとう、恵まれれた方」と、天使から告げられたように、
自分が願っていた、思い描いていた、夫ヨセフとの幸いな生活とは、かけ離れた人生に導かれることになったけれども、
神に選ばれ、神に召され、イエスさまを宿す人の人生は、まさに、人の思いを超えて、自分の願いを超えて、
神に「祝福」されている道なのだと、わたしたちは知っているのですから、
今、わたしたちも、神に選ばれ、神に導かれ、イエスの霊、聖霊を宿し、イエスが共にいてくださる人生も、
「わたし」の思いとはちがって当然。それゆえに、神の祝福を受けている歩みであること、
だからどんなことがあっても、大丈夫なのだと、
わたしたちは、週に一度、こうして礼拝に集い、主イエスの言を通して、
神の子である、本当の自分の立場を取り戻して、主を賛美するのです。
イエスさまは、今日のみ言葉の中で、弟子たちを見て、こう宣言なさいました。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」
原語のギリシャ語では、「マカリオス」最初に、「幸いだ」という宣言で始まるこの言葉。
「幸いだ。祝福された者よ。貧しい人。神の国はあなたがたのものだ」
この有名な言葉を読むたびに、つい、「貧しい人」とはいったい誰のことかと、聞きたくなる。
マタイの福音書の山上の説教のほうでは、「心の貧しい人」となっているが、貧しいのは、「心」なのか、「お金」の話しなのか、どっちが、本当なのか、なにが言いたいのかと、解説書をひも解いては、今まで、果てしのない議論がなされていることを、知ることになる。
でも、もっとシンプルに考えたらいいのです。
「ああ幸いだ。祝福された人たちよ。神の国はあなたのものだ」と呼びかけられて、
「ああ、嬉しい。本当にうれしい。感謝です」と思える人がいたら、
その人たちのことを、この「貧しい人」とイエスさまは呼んでいるのだと、そう考えたらいいのです。
貧しい人とは、いくらまで財産をもっている人でしょうとか、人と比べ合って、私の方が貧しいとか、あの人は金持ちだとか、
そんなことを議論させるために、詮索させるために、イエスさまが「貧しい人」などと、言うわけがないのです。
今日の聖書の御言葉をよく読むと、まず、イエスさまは、目を上げて、目の前の弟子たちをみたのだと、言われているのです。
まあ、正直、あんまりりっぱな人の集まりではなかった。そして、でこぼこというか、バラバラというか、はたして一緒にやっていけるのかと、はらはらしそうな、弟子のあつまりでもあったけれども、
でも、イエスさまは、祈って祈って、確かに、これが神の御心だと、大切な1人1人として、12人の使徒を選ばれたし、そんな12人を中心とした、大切な大切な弟子たちを、ご自分に信頼してくれている1人1人のことを、
イエスさまはきっと、この上ない、愛の眼差しで、見つめられて、
「ああ、なんてあなたがたは幸いだ。神に祝福された者よ。神の国はあなたがたのものなんだよ」と言ってくださったに違いない。
その「神の国」とは、もちろん「あなたの思い通りになる国」でも、「あなたの願いどおりに、だれかが動く国」でもない。
そんな「自分中心」な、自分の思いが、自分の支配が実現すればいいというような、そんなものではなく、
完全なる愛と公平と、正義と、憐れみが、実現する、いのちの喜び、希望に満ち溢れた、神の国こそが、神の支配こそが、
わたしたちを本当に、幸いにするのだから。神の国が来ますようにと、そう心からねがい叫び求めざるを得ない、「貧しさ」こそ、
幸いであることを、イエスさまに選ばれ招かれた弟子たちは、そしてわたしたちは、知っているのだから。
それは、今、目の前の問題が、すぐ解決したり、私が思い描いていた通りになる祝福とは、違う祝福。
もっと最善の、すべてを愛と深い配慮のもとに導かれている、神の祝福に、心開く、そんな「貧しき者」でありたいのです。
わたしは、10年近く、東北の冬を経験してきて、あるときつくづく思ったことがありました。
ああ、北国は、冬の数カ月の間、なにもできない。伝道もできない。まるで無理やり、冬眠させられるような、数か月を過ごさなければならない。ああ、なにか人生、損をしてしまっているんじゃないか。温かいところに住んでいるだけで、冬も活動できるだけで、幸いなことだし、なんだか不公平だなっと、
目の前の厳しい現実に押しつぶされそうになって、そんな思いになったことが、正直あるんです。
今、自分が置かれている場所、環境、状況を受け入れられない。もちろん、それが神の祝福とは思えない。そんな時は、きっとだれにでもあるでしょう。
おまけに、雪が降ったら、雪かきをしなければならない。朝起きて、どっさり降った雪を、まずどこかによけなければ、自動車が出せないから、汗だくになってやる。でも雪が多い時は、ほんの1時間もしたら、また元の状態に戻るんです。そして、頑張って頑張って、汗水たらして積み上げた雪も、やがて春になれば、みんな溶けてなくなってしまう。すべての労働は、無に帰するんです。何も残らない。
わかりますか、このむなしさ。まったく報われない、徒労なんですよ。なんで、神さまは、北国にだけ、こんな試練をお与えになるのか。
こんな徒労を、苦しみを、お与えになるのか。こんなことに、意味があるのかって、正直思う。
しかしですね。その徒労をしいられるだけのように思った、冬の雪が、
やがて溶けてなくなるだけのようでいて、実は、それがやがて田畑を潤す雪解け水となり、東北の土地を潤し、秋には豊かな収穫をもたらすんですよ。冬に、雪が降らなかったら、決して与えられない、豊かな実りを、雪国は、やがて頂くのです。
イエスさまは言います。
「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」
「今、泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」
なぜ、こんな試練が、苦しみが、悲しみの涙が、こんなことに、何の意味があるのか・・・・
それはわたしの罪ですか、罰ですか。サタンの呪いですか・・・
この世の宗教は、きっと、それは、あなたの行いの報いとか、先祖の供養をしないからだとか、原因さがしをするでしょう。
そして、あなたのせい、あの人のせいにして、心を縛っていく。
しかし、イエスさまはそんなことはいわないんです。原因なんて、何一つ語らない。そんなことわからなくていいのだから。
そうではなく、今のその苦しみ、悲しみの涙を流すものは、幸いなのだ。やがて喜びへと変えられる時が来るのだからと、未来の希望を語ってくださる。
過去を振り返るのでも、今を否定するのでもなく、
今、その苦しみの中で、その試練の中で、それは主にあって、決して無駄な「徒労」になど終わることはないのだと、
信じてイエスについてきた、弟子たちに、そして、私たちに、ああ、幸いなものよと、神の祝福を語ってくださるのです。
22節でイエスさまは言われます。
「人々に憎まれる時、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」
それは、やがて弟子たちに襲ってくる迫害のことかもしれません。しかしその前に、まさに、神の言を語ったゆえに、迫害されつづけた、古の預言者の、その流れの最後のお方として、イエスさまご自身が、苦しみと悲しみのすべてを身に受け、十字架へとつけられようとする、その受難の出来事と、どうしても、重なります。
神の言葉を語るイエスさまを、どうしても赦せなくて、十字架に押し上げていった人々。イエスを何とかしてやろうと、「怒り狂って」いるファリサイ派や律法学者の人々。
それは、今日のイエスさまの言葉の後半で、
「富んでいるあなたがたは、不幸である」
「今、満腹している人々は不幸である」
「今、笑っている人々は不幸である」
と、語りかけられている人々と考えること出来ます。もちろん、弟子たちに語られていることは、忘れてはならないことですが。
あなたがたは「不幸である」という言葉は、きつい言葉です。ほかの聖書の訳では、「哀れだ」と訳しているものもあって、むしろそちらの方が、イエスさまの心ではないかと思う。
貧しい人が幸いで、金持ちは不幸。そんな、どこかに線を引いて、これは悪で、これは善という、二元論で、この世界を切り分けるようなことを、イエスさまはなさらないから。悪いものにもよいものにも、神はひとしく雨を降らせるお方だと、イエスさまは言われるお方だから。
豊かであることが、悪なのではない。むしろ、イエスさまは、その状態は、「もう、慰めを受けてしまっている」といい、また「今、満腹してしまっている」「今、わらっている」「今、ほめられている」と、今、すでに、目の前の満足を頂いてしまっている。
そういう、「自分」の思い通り、「自分」の願った通りの人生を、もう、今、手に入れてしまっている。
本当は、そんな目の前の小さな成功を遥かに超えた、神の国という永遠の価値ある御心に、生きることができるのに。
そのために、一度きりの地上の人生を与えられているのに、
自分ための、目の前の生活の満足を求めて、それを手に入れて、これでいいと思ってしまっている。
ああ、哀れだ、という、そういう言葉として、わたしには響いてくる。
それは、マタイの福音書の山上の説教の中で、律法学者たちが人々からほめられようとして、よいことを行っている偽善のむなしさを、憐れみ、叱責なさったあの時と、同じように、
そんな目の前の、自分の満足を自分のプライドを満足させるだけの、むなしい人生を、生きてしまう、哀れさ。
そんな哀れな、豊かさを生きるくらいなら、
たとえ人々に理解されなくても、バカにされ、ののしられ、汚名を着せられようとも、
決して、奪い取ることの出来ない、永遠の価値ある人生を、神の国のための働きを、日々を生きていきたい。
そこにある喜びを、味わっていきたい。
その祝福に生きる喜びにまさるものは、他にないのだから。
イエスさまは、まさにその喜びのために、目の前の十字架を忍び、耐え、いのちをさえ捨ててくださいました。
そのご自分の苦しみが、ご自分だけの苦しみの出来事で終わるのではなく、
この世界を救いだす、贖いだす、苦しみであることを、知っておられたから。
あのイエスの受けられた傷が、ただ、イエスだけの傷であったのではなく、
すべての人の、罪の傷をいやす傷であったと、イザヤが預言していたように。
今、イエスを宿し、神の祝福を受けている、私たちも
今の苦しみも、悲しみも、困難も、試練も、傷も、
誰かを癒し、この地に、天の恵みを注ぐための、神の国を来らせるための、かけがえのない、宝となるから。
だから、すでに、神の国はあなたがたのものなのだ。
今、このイエスさまの言葉を、わたしへの語りかけと、聞く耳を頂いているわたしたちは、貧しき者。
神に祝福された、幸いなものです。
今週も、この神の祝福の中を、わたしたちは歩み続けるのです。