教会とは礼拝もするし、そのほかさまざまな活動や交流をするところ、ではなくて
教会とは礼拝です
教会のすべての活動は、礼拝へと向かうためのものです
クリスチャンがいるところが自動的に教会なのではなく、
神の民として呼び集められて、神からの語りかけを聞き、応答していくとき、
教会は新しく教会となります。
教会は社会奉仕の場でも、カウンセリング室でも、お茶飲みの交わり場でもなく、
礼拝をしているとき、そこに教会があるといえます。
教会は、礼拝のなかにおいてしか、命を受けることはできないし、教会として存続し続けることもできないのです。
他のあらゆることは、教会以外の組織でも出来ます。しかし、イエスキリストを通して神を礼拝することだけは、教会にしかできません。
でも、この問題山積みの社会の中で、「教会は礼拝だけをしていればいいのか」
なにか教会はこうどうすべきではないかと、教会の数少ない人材と時間が、政治的活動や、社会事業などに注がれることもあります。
しかしむしろ、教会はそのリソースを礼拝に集中することで、この社会に貢献するのです。
礼拝に与った人々は、この世へと派遣されていくからです。
復活のイエスのことばと命を宿した人々が、
ビジネスマンとして、カウンセラーとして、政治家として、教育者として、福祉
事業者として、学生として、アルバイトの店員として、
さまざまなこの世の領域、現場で奉仕し、神の恵みをこの世にしみわたらせていくからです。
この一人ひとりが、それぞれの現場で、専門の組織で、さまざまな課題の解決のために、働くのです。
教会は教会にしかできない、礼拝という専門に集中することで社会貢献をしているのです。
社会に対して、三位一体の神の愛と恵みを宿した人材を、
イエスの口となって、神の愛の言葉を語る人を派遣しているのですから。