「平穏死のすすめ」

shuichifujii2014-03-19

2014年3月19日(水)13時30分〜15時
酒田市公益研修センター 多目的ホールにて

「平穏死のすすめ」の著者が語る これからの幸せな最期の迎え方
講師 世田谷区立特別養護老人ホーム 芦花(ロカ)ホーム 常勤医師 石飛幸三氏


「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか (講談社文庫)

「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか (講談社文庫)



講演のメモを、以下に記します。

すでに、400回を超えた講演をしている。それだけ、このテーマをみんな考えている。日本に大きな流れを作っているとおもう。

昔、養老院。介護保険以後、特別養護老人ホームとよばれるようになった。
ある日突然、お母さんが子どものことがわからなくなる。介護パニック。
家族を支える。それが特別養護老人ホームのはたらき。

実際老いて衰えていく状態に、医療は限界がある。
延命治療法は数々生み出されているが、方法があれば、なにがなんでもやればいいのかという問いがある。

いずれは最期がくるのであるなら、それらの延命の方法が、どのような最期をもたらすことになるのかを、知っておくべき。
老衰に、医療がどこまで介入すべきなのか。

老いて衰え、誤嚥性肺炎。どこまですべきか…

病気と老衰は違う。
病気は治療によって、回復する希望もあるが、年をとって、様々な病態が増え、程度も悪くなる老衰は、医療ではどうにもならない。
いずれは自分も最期が来ることを腹に据えて置かなければならない。
病院で何とかなるとおもうから、失望する。

自分は最期、どうありたいのかとちゃんと家族に話しておかないと、最期に救急車を呼ばれることになる。
運ぶ救急隊員も、本音ではこの人を病院に運んで、本当にこの人のためになるのかと感じている。
病院に運ばれて、すでに死んでいる人に、CTをするということさえ…

自分の医者の仲間内でも、人間は、神様がこの世に「修練してこい」と送り、やがて終わりに近づいたら、「そろそろ帰ってきて休め」といっているのだろうと話している。

人間がやる科学技術、医療の限界を度々体験させられるから。

施設にいったいどういう状態の人を預けているのか、という認識がないと、施設に対して、「骨折させられた」「肺炎にさせられた」といいだすことになる。

また、「1500キロカロリーはいれなければならない」とか、誰も決めていないことを守り、無理に食べさせようとする、その一口が、誤嚥性肺炎に繋がることも・・・

人間、確実に坂を下っているのだ。ちょっとしたことで、骨が折れるようになる。

誤嚥性肺炎で病院におくられると、病院で肺炎は直せても、もう口からは食べることが出来ないといわれて、胃瘻にされる。

胃瘻をつければ、ご飲を防げるという考え。しかし、それは違うのではないか。人間は機械ではない。

胃から食べ物を入れ過ぎると、逆流、嘔吐し、結局、誤嚥、窒息がおこる。

人は自然にどんどん食べる量が少なくなっていく。胃瘻はその人間の状態に無関係に食べ物をいれつづけてしまう。

確かに、一人しかいない親に、いつまでもこの世にいてほしいという気持ちはわかる。しかし、それが親のために本当になるのか、ということを考えなければならない。

いずれくる最期。本人のためになる最期を迎えられるように。

「口から食べられなくなったらどうしますか」ということを考え話し合っておくべき。
以前から、その本人がどういう考えの人であったか。家族は知っておくべき。

食べさせないから、死ぬのではない
人間は死ぬときに 食べなくなるのだ

体の中を整理して
余計なものを捨てて
身を軽くして
天に昇って逝く

「自然死は苦痛がない」

命を延ばす方法を、しないことが殺人だという、医師の強迫観念がある。
そんな、医療のためにかえって状況が悪くなることが多い。

「平穏死」という考え

「病院」は、まだ先のある人が頑張るところ
「施設」は、穏やかに最期を迎えるところ

 自分の最期の閉め方を、しっかり書いておく。

そして、大切なのは死の瞬間だけではない、
見取りは入所の時から始まっている、
入所者がどう生きたか。家族とどう関わってきたか。
それが最期に結実するのである

実際に施設で働いておられる方の体験も、とても心に迫ります。

http://d.hatena.ne.jp/getsuki-12/20130917/1379413789


人は神さまによって生まれ、神さまによって導かれ、神さまによって天に帰っていく。

この摂理をまっすぐ受けいれ、平安でありたいものです。


こうして死ねたら悔いはない

こうして死ねたら悔いはない