人間が作った「お守り」「お札」

人間が作った「お守り」「お札」
それは、なにも神社でもらうそれのことじゃないんです。

「知識」「資格」「学歴」「仕事」「人間関係」「健康法」「社会的地位」「貯金」「年金」「宗教」みんなそれです。

 教会もまた、聖書の信仰を「人間の幸福宗教」「御利益信仰」に変質させて、人集めをしている面がないでしょうか。


「現代的な価値観における、幸せ、成功」のために、「神の言葉」を利用していないか、牧師は自己吟味が必要です。


 神を神とすること。ゆえに、試練も苦しみも喜びも、感謝し、なお信じ、イエスさまとともに、イエスさまの後に従っていきる道こそ「聖書的な価値観における、『幸いなる者』」なのだから。


「自分が幸せになるために」木で作った神を「お守り」「お札」にしても、そんなものに人間は救えず、ただ、振り回されるだけだと気付きたい。



「以前には信じていたはずの神が信じられなくってしまったとしても、それは、あなたの信仰が間違っていたということを示すものであり、あなたが神と呼んでいたものが何であったかをよく吟味すべきことを示している。もし木にすぎない神を信じることを止めたとしても、神が存在しないことを示すのではなく、真の神は木などではないということを示すものである」レオ・トルストイ(ロシアの小説家)



「手で造ったものなど神ではない」 新約聖書 使徒言行録19章26節