しみじみとした喜び

shuichifujii2013-05-04

 のぞみ教会は10時から30分ほど、子どもと大人に分かれて、聖書の学びをしたあとに、大人も子供も一緒になって、讃美歌を歌い始めます。
最初の聖書の学びの時間も、礼拝の一部という位置づけなので、礼拝開始の時間は10時からとアナウンスしているのですけどね。


 明日の聖書のお話の題は「人ではなく神さまによる救い」(ヨハネによる福音書1章19節〜34節)

 明日は、いつものHさんご夫妻がご用事で仙台に行かれ、仙台教会の礼拝に出席なさるのと、わたしの上の二人の子たちが休みを利用して東京に行って常盤台教会の礼拝に出席することもあって、わたしたちの礼拝は、少しさびしいのはさびしいんですけれど、それでも、自分のほかに一人でも一緒に讃美歌を歌いお祈りして礼拝する人がそこにいてくれるのだから、これに勝る喜び、嬉しいことはほかにないんですよ。本当にそう実感している。


 また本の引用ですけど、こんな言葉がありました

ある学生が「満たされ過ぎているのか、最近『喜び』を感じないのです・・・・」と質問したら、先生が「涙の種」を蒔いていないのでしょうと答えた。

学園祭の打ち上げに突然参加しても、楽しいかもしれないが、喜びはない。
一瞬、気持ちは華やぐが、会場を後にすればすぐに冷める

そこで本当に喜べるのは、感か月も前から
友達とぶつかりながら準備してきた人たち
汗と涙を流してきた人だけが、心から喜ぶことができる

「楽しみ」には、土台がない
だから時間とともに流され、消えていく。
「喜び」には「悲しみと涙」という土台がある。
この土台があって、初めて「喜び」が誕生する。
これは時がたっても、心のアルバムに保存される・・・・・・

そうだよなぁ・・・

 こののぞみ教会も、最初のころは、だれも知り合いもなく、教会らしい建物もなく、ただ福音が人を救うことだけを信じて、平屋の一室でささげた礼拝で福音を語り、チラシを配っては福音を語り、毎日ブログを書いては福音を語り続けてきたけれど、数年前、初めて教会に人が来たときのドキドキ感、喜びは生涯忘れられないね。でも、それ以上に、教会に来てくれた人々と、別れてしまう悲しさとか、やっぱり礼拝にはなかなか来てくれないさびしさとか、孤独を感じてきたほうがはるかに多かったので、そのおかげといってはなんだけど、たった一人の人が教会に来て、一緒に礼拝を捧げられることの喜びをしみじみと実感できるようになったことだけは、確かなんだよなぁ。


ということで、日曜日はどうぞお近くの教会へどうぞ
この世界中のすべての教会が、かけがえのない「あなた」との出会いを心から待っています。



「涙とともに種をまく人は
喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い
喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」詩篇126編