今日も一日強い風。
息子の通う小学校は、今日から新学期。昨夜、やっていなかった宿題があることが判明して、あせったのは、妻と私のほう。
彼は、まあ平然としていた。
宿題ごときであせった親が正しいのか、平常心でマイペースの息子が正しいのか。
天の父だけが知っている(笑)(^o^)。
さて先日、NHKで、あのサンデル教授が東北大学で1000人の被災者の方々と討論した番組をやっていました。
その討論の最後のほうで、被災地が復興していく過程において、時間がかかっても地域の人々の合意を得ていくべきか、それとも、合意を待たずに早く計画を前に進べていくべきか、というテーマが語られていたんです。
様々な意見が語られたあと、最後にある方がこんなことを言われました。
「合意というより納得」
この言葉がとても印象的だったのです。
様々な意見があるなかで、すべての点で合意することは難しい。しかしちゃんと意見を聞き検討し、その意見が通らなかったとしても、それを受け入れ、納得していく時間が大切だ、という言葉に、とても説得力がありました。
「合意」と「納得」はちがうんです。
今思うに、わたしはその、納得していくプロセスには、時間と共に、「祈り」が大切なんじゃないかなと思うのです。
御心を求める「祈り」
「納得」とは、妥協でも、あきらめでもなくて、今の自分には理解できなくても、この自分の小さな考えにまさるよりよい実りを信じて、異なる意見に「納得」するにいたるわけだから。
それならば、そこに自分を超えたお方の御心を求める「祈り」が大切になってくるはず。
イエスさまが、ゲッセマネの園で「できるならこの杯(十字架の苦しみ)を取りのけてください。でも、わたしの思いではなく、あなたの御心がなりますように」と祈られた祈りはまさにそういう祈り。
意見が対立し、物事が前に進まないからと、妥協したり、少数意見を切り捨てたくなったら、ちょっと立ち止まって時間をとって、祈ってみたらどうでしょう。
「合意」は出来なくても、「納得」へといたる道が与えられたら、素晴らしいことですよね。