神様がおられないと思われるときにこそ祈る時
神様はわたしたちのパトロンではなく、いつも望みを叶えてくれるお方でもなく、神様は、あくまでも神様だから。
神様を身近に感じられる時はたしかに恵み。
でも、神様はどこにいるのだろう、と神の不在を感じる時が、恵みではないかといえば、そうも言えない。
神様の不在を感じるからこそ、神様が人とは隔絶された聖なる方であり、人は神様について分かっているようでなにもわかっていないことを教えられる。ゆえに、尊敬、畏敬、礼拝が捧げられていく。
身近すぎる存在だと、かえってないがしろにしてしまうかもしれない。
神様が共におられることを感謝するために、むしろ神様が共におられないと感じる経験がある。
たしかに、神様が共におられないと感じることは、心の痛みと寂しさを伴う。
でも、感情の浮き沈みとか、自分勝手なイメージ、幻想を越えたところで、神様が共におられるとはいったいどういうことなのかを知っていくために、神様はどこにおられるのだろうという、不在感を経験する必要があるのだ。
それは、天の父とまさに一つであったイエスさまが、十字架の上で「わが神、わが神。どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と神様の不在を体験してくださったことに通じていく。わたしたちの暗闇を、見放されたような意識を、神と1つである神の独り子自らが背負ってくださり、神の不在を経験してくださった。そしてその暗闇を突き抜けて神によって復活させられ、わたしたちは、神様の臨在を経験できるようになった。
自分の罪や愚かさに直面し、神様を遠く感じさせられるからこそ、十字架による赦しと、神の不在を突き抜けて復活なさったイエスさまが、この罪深いものと、なお「いつまでも共にいる」と言われたみことばが、祈りのなかで響いてくるし、神様の臨在をそこにおいて、より深く知らされていくはず。
ゆえに、神様の不在と臨在は、実は一つのこと。
十字架と復活が一つであるように。